sakura

小説を書いたり、鼻歌を歌ったり。

記事一覧(8)

洋菓子店員の恋-7-

 ショーケースには、夢のような輝きが詰まっている。 透き通ったゼラチンに沈む、色とりどりのガラス細工のようなフルーツ。 白い陶器のように眩しい生クリームと、その上で澄まし顔をする苺の、ハッとするほど鮮やかな赤。 眩暈を誘うほど濃厚な、甘い甘い香り。 洋菓子店員になり、俺は知ってしまった。 この場所――カウンターの内側は、とっておきの特等席なのだ。 仕事帰りの疲れた顔が、ショーケースを覗き込むと少しだけほっとした表情に変わる。 たった今までぐずって泣いていた小さな女の子が、チョコレートケーキを前に目を輝かせる。  そんなお客さんたちの顔を独り占めできることはきっと、洋菓子店員の特権だ。 人を幸せにする、なんて、そんな大それたものではない。 けど、うちの洋菓子を頬張った誰かが「明日もがんばろう」と思ってくれるとしたら。 こんなイカした仕事、なかなかないんじゃないか。 それに気づいた時、俺の中に一つの夢が生まれた。 ゆくゆくは、そのお客さんの笑顔を作り出すパティシエという仕事に就いてみたい。 さすがに大学を辞めて留学、なんてのは今のところ考えられないけど、羽田さんが許してくれる限り、あの人の下で両立を頑張ってみようと思う。 バレーを引退したら大学では適当に遊ぶつもりでいたのに、俺は既に別の「やりたいこと」を見つけてしまった。 単純な性格のおかげで予定はすっかり狂ったけれど、……まあ、それも悪くはないかな。 店の裏口から出て、巻きつけたマフラーに口元を埋める。 寒さに身体を縮めながら自転車置き場に向かい、――俺はぴたりと足を止めた。「遅いよ、30分以上待った」 さゆちゃんが俺の自転車に跨っていた。 よほど寒いのか、コートの袖口から引き出したニット袖に手をすっぽりと引っ込めている。 コートの裾、合わせ目から覗いた白い太ももが街灯に照らされ、暗がりに浮かび上がって見えた。「ごめん。待ってると思わなくて。羽田さん――副店長とちょっと、話しててさ」「仕事のことで?」「うん」 「ならしょうがないね。羽田って人のせいってことにする」 さゆちゃんはピョンと地上に降り、少し離れたところに立った。 自転車を出すように促されているのだと気付き、慌てて足を進める。「新太くん、さっき言ってたけど。……やっぱり、奥で厨房の仕事、するの?」 「初めは週末だけね。そのうち、ほとんど中に引っ込むことになると思う」 「そうなんだ。……お菓子作る人になるんだね」 「うん。俺、大学卒業したら、本格的にパティシエ目指そうかと思ってる」  相変わらずクセのある鍵と格闘しながら、すこしだけ勇気を出してそう言うと、さゆちゃんは「ふうん」と気のない返事をした。「……あれ。まさかのノーコメント」 「え」「いや、頑張れとか、あんたには無理だとか、なにかあるんじゃないかと思ったから」 さゆちゃんは少し間を置いて、「別にないかな。だって私が何も言わなくても、新太くんなら放っておいても自分の力で夢を叶えるだろうし。強い人だから」 思わず顔を見て固まると、さゆちゃんはきょとんと目を瞬いた。「なに?」 「……」 今すぐ抱きしめたいほど嬉しい言葉だったけれど、俺は「そっか」とだけ言って再び顔を伏せた。 この子の言葉には、不思議な力がある。 それは、――まあ、確かにちょっとわがままだし可愛げがないところもあるけど――さゆちゃん自身に嘘がないからなんだと思う。 横顔をこっそり見つめながら、俺は少し未来の二人の姿を思い浮かべた。 もし、この子とこれからも一緒に居ることになったとして。 歯に衣着せぬ物言いに、俺は今後も大いに反発するだろう。  そして結局、毎回俺が折れることになるのだ。  なぜなら、おそらく彼女の言うことは正しいのだろうし、まあ、なんだかんだ言って俺は、女の子にお尻を叩かれたほうがうまくやっていけるのかもしれない。  ――なかなか見つからないだろうな、さゆちゃんみたいな子は。 そう考えたところで、俺は急に落ち着かない気持ちになった。 のんびりしてる間に、彼女を他の男にもっていかれたらどうしよう。「さゆちゃん」「ん?」「さゆちゃんて、彼氏とかいるの」「いるわけないでしょ」 さゆちゃんが眉間に皺を寄せる。 「彼氏がいるのになんで新太くんとホテルに行くの」 「まあ、……そうなんだけどさ。一応、確認?」  未だ開かない鍵をちまちまといじりながら、俺は気持ちの盛り上がりに任せて続けた。「あのさ」 「なに」「もし、……もしもさ、俺が――」 言いかけて、はたと我に返る。 ――いや。いかん。 いくらなんでも、失恋が確定したその日に別の子に行くのはまずいだろ。 椎名さんとはるきちが一緒にあのケーキを頬張っているところを想像すると、正直、まだ胸が痛む。 こんな中途半端な気持ちで付き合おうとか、さすがにそんな――。「別に、いいけど」「えっ」「ホテルでしょ?いいよ、行こ?……新太くん、今日は一人でいるの、辛いと思うし。だから待ってたんだもん」「……」 カチョン、と間抜けな音と共に、鍵が外れた。「なんだよ、それ……」「あ……ごめん。違った?」「違ったよ、全然。そういうことじゃなくて、俺は」「じゃあ、行かない?」「行く」「行くんじゃない」「いや、やっぱ行かない」「どっちなの」「だから。行きたいけど行かないんだよ。俺はさゆちゃんとのこと、もっとゆっくり始めたいし、大事にしたいの」「――」 さゆちゃんが目を大きく見開き、「え」と小さく声を発した。 やがてその目を泳がせ、顔を逸らす。「なにそれ。……いまさら、変なの……」 暗いから分かりにくいけれど、おそらくその横顔は真っ赤に染まっているのだろう。 どうしようもなく愛しく思え、堪らない気持ちになったけれど、――自転車を引き出した両手がハンドルでふさがってしまっていたため、俺はまたしても彼女を抱きしめるチャンスを逃した。 カラカラと自転車を押しながら、路地に出る。 今夜はいつにも増して凍えるような寒さだというのに、身体が熱を帯びているせいか、暑いくらいだ。 細い路地には、二人の足音だけが反響している。 少し息苦しくて照れくさい、しばしの間。 それを破ったのは、「おーい、新太」と背後から呼びかける声だった。 二人同時に振り返る。「――羽田さん」 店の方からこちらに小走りで向かって来るのは、コックコート姿の羽田さんだった。 手を上げて見せ、さらに足を速める。「よかった、追いついて」 笑いながら、俺たちが立ち止っている街灯の光の輪の中に入って来る。「どうしたんですか」「これ、新太のだよね。更衣室に忘れてた」「あっ」 差し出されたのは、見覚えのあるナイロン地の長財布だった。 慌ててデニムの後ろポケットに触れ、今さら空であることに気付く。「すみません、ありがとうございます。……ほんと、すみません」 ペコペコする俺に財布を「はい」と手渡してから、羽田さんはさゆちゃんに視線を向けた。「お友達?」「あ、……はい」「新太のこと、いつも遅くまで独占してごめんね」「いえ、そんな、ぜんぜん、はい」 見ると、さゆちゃんは恥ずかしそうに俯いたまま受け答えをしていた。 それでも、時折りチラチラと視線だけを羽田さんに向ける。 人見知りなので直視は出来ないが、それでも美しいものを見たいという本能が抑えきれない。そんな感じだ。「……」 自分のおなかのあたりから、「イラッ」という音が聞こえた気がした。「じゃ、新太。また明日も頼むね。帰り、気を付けて」「はい。財布、わざわざありがとうございました」「おつかれさま」「おつかれさまです」 スポットライトの下から颯爽と退場する羽田さんを見送ってから、届けてもらった財布を後ろポケットに押し込む。「ほら、いくよ」「え、あ、うん……」 未だイケメンオーラに圧倒されているのか、さゆちゃんはどこか夢見心地な足取りで歩き出した。 ――まったく……。 俺は深いため息を吐いた。 いくらなんでも、あからさまに見惚れすぎだっつーの。 まあ確かに、俺も可愛い女の子がいればボーっとしちゃうこともあるけど、それにしたって。 だいたい、はるきちも羽田さんもイケメンすぎるんだよ。 しかも中身もイケメンとか……まったく、カッコ良さもたがいにしてほしい。 八つ当たり気味に心の中で愚痴りながら口を尖らせていると、さゆちゃんが隣でふふっと笑った。 見ると、いたずらっぽい横目でこちらを見上げている。「何だよ」「別に。何か怒ってるのかなあと思って」「怒ってないし」「あっそ」 さゆちゃんは意味ありげな笑いを残し、前方に顔を向けた。「今のが、羽田さん?」「そうだけど」「カッコいいね」「……まあね」 分かり切ったこと言うなよ、とさらにムッとしていると、「ねえ、接客のバイトって、まだ募集中だよね」 俺はギョッと目を剥いた。「だめっ、ダメダメ、絶対ダメ!!」 俺の剣幕に、さゆちゃんが目を丸くする。「……びっくりした。なに、急に」 「バイトするのは自由だけど、うちの店だけはだめ、絶対やめて」「そこまで言わなくても……」「とにかくだめ」「どうして」「羽田さんに近づけたくないからだろ。分かれよ」「……」 しばらくポカンと俺の顔を見つめてから、さゆちゃんが噴き出した。 二の腕をバシッと叩き、やけに嬉しそうな顔で笑う。 我ながら恥ずかしいことを言ってしまった、と後悔しながら、俺は天を仰いだ。 ジンジン痛む二の腕が熱く、何とも照れ臭い。「――ねえ」 笑いが完全に収まらないまま、さゆちゃんが俺の顔を覗き込んだ。「やっぱり、このまま帰りたくないんだけど。ホテルじゃなく、カラオケでも行く?これ、一緒に食べようよ」 さゆちゃんはうちの店のケーキボックスを持ち上げて見せた。 その中身がフルーツタルト2個と1時間分の保冷剤であることは、俺が一番よく知っている。「……カラオケね。うーん、どうすっかなあ」 断るつもりなど毛頭ないくせに、バツの悪い俺はわざとそう言った。 もったいぶってみただけで、俺は本当はさゆちゃんの提案に感謝さえしていた。 彼女ともう少し一緒に居られることが嬉しかったし、それに、――。 うちの店のフルーツタルトなら、恋に破れたばかりのこの胸の苦味をすっかり癒してくれるかもしれない。そんな気がしたからだ。 商店街の長いアーケードは、以前、二人で歩いた時とは景色が違って見える気がした。 これから何度、俺たちはこうして、並んでこの道を歩くのだろう。 そんなことを思った。 不機嫌な表情を保ちつつ、俺は頭の中で、得意な曲の一覧を検索し始めていた。END

洋菓子店員の恋-6-

「ありがとうございました、お気をつけてお持ちください」 小さな女の子を連れた若い母親が店を出て行くと、俺はレジ周りを片付けながら、ちらりと時計を見上げた。 夕方の6時を過ぎたところだ。 レジ横の卓上カレンダーと、手元に一枚だけ残った注文票を見比べる。 日付と曜日。間違いなく今日のものだ。 来店予定時間は6時半。 これも間違いない。 まあ、午後になってからこの動作を何度も繰り返しているのだから、間違いがなくて当然なわけなのだが。「分かりやすいわねえ、佐々木くん」 パート主婦の三村さんが、横目で見ながらニヤニヤ笑いを浮かべている。「何がですか」「そんなに待ち遠しいの?椎名さんに会うのが」「……はい?」「いやあねえ、すっとぼけて。誰だって分かるわよお、だって今日は予約表の束を肌身放さず持ってるし、一日中落ちつきが無かったじゃない。それが最後の一枚ってことは椎名さんを待ってるってことでしょ?」「……」 言い逃れる術を失った俺は観念し、ため息をついた。 そう。 今日は予約のバースデーケーキを取りに椎名さんが店を訪れる日。彼氏の出張がなくなったから一緒にお祝いできると、嬉しそうな声で電話が入ったのが三日前のこと。つまり、今日はめでたいことに彼氏の誕生日当日、というわけだ。「言わないでくださいよ、誰にも」「もちろん」「口に出さなくても、本人の前でニヤニヤするのとかもダメですからね」「分かってるってば。そんな下世話な真似、するように見える?」 見える。 けれど、もちろんそうは言わないでおく。「可愛いもんねぇ、彼女。佐々木くんが惹かれるのも分かるわあ」 うんうん、と一人で頷いてからふと真剣な表情になり、「……もしかして、彼氏から奪う気?」 俺はぎょっと目を見開いた。「まさか。そんなこと考えてませんよ」「考えてないわけないでしょ、好きなんだもの」「いや、好きっていうか、……ちょっとした憧れみたいなもんですよ。自分には彼氏持ちに手を出す度胸なんてありませんし」「そんなの、手を出してみないと分からないじゃない。本当に彼氏とうまくいってるとは限らないし、もしかしたら勝てるかも」「……三村さん、意外と肉食な発言するんですね」「他人事だから無責任なこと言ってるだけよお」 あはは、と笑ってバシンと背中を叩く。 予想以上に重い衝撃を受け、むせそうになった。 ――奪う、か。 俺は注文票に視線を落とした。 さすがに、店員として接しているだけの相手にいきなり告白するつもりはないけど。 でも、――一度、メシにでも誘ってみるのはアリかもしれない。 そうすれば、少なくとも自分の気持ちが本物なのかどうか、そこだけははっきりするのではないだろうか。「……カレシって、どんな奴なんですかね」「え?なに?」「椎名さんの彼氏ですよ。やっぱ、カッコいいのかな」「どうかしらねえ。でも、若さでは勝ってるんじゃない?“先生”って呼んでるくらいだし、大学の教授かなんかでしょ、きっと。むさくるしいただのおっさんだったら佐々木くんにも可能性はあるかもね」「……マジすか」 三村さんは肘で俺の脇腹をつついて、「佐々木くん、顔はまあまあだし。“洋菓子店員”っていう肩書きも、女の子にとってはなかなか悪くないと思うわよ」「そうですかね」 顔がまあまあ、というのが褒め言葉なのかどうかはさておき、何となく気分が盛り上がる。 時間はかかるかもしれないけど、少しずつ距離を縮めて行けばもしかしたら、ゴハンくらいは付き合ってもらえるんじゃないだろうか。 椎名さんとレストランのテーブル席で向かい合う画を思い浮かべる。 美味しそうに料理を頬張る彼女。静かにワイングラスを傾ける俺。 店を出て、夜景の見えるガラス張りのエレベーターの中でさりげなく手を繋いで、 ――強引に壁ドンするところまで妄想が進んだところで、カラーン、とドアベルが鳴り響いた。「いらっしゃいませー」 愛想よく笑顔を見せた三村さんの隣で、俺は「……ませ」とだけ呟いた。「……どうも」 さゆちゃんは、初めてこの店を訪れた時と同じように、少し不機嫌そうに首を傾げて見せた。「あら、お知り合い?」 三村さんが興味深げに二人の顔を見比べる。 ええ、まあ、と小さく答え、俺はさゆちゃんの表情を窺った。 ――びっくりした。 もう、来ないと思ってた。『じゃあね。バイト、がんばって』 ホテルで一夜を明かした、あの日。 朝焼けの中、さゆちゃんは爽やかな笑顔で手を振り、改札の中に消えて行った。 こちらを一度も振り返らずに。 全てを吹っ切ったようなその表情を目の当たりにし、俺は別れの挨拶さえ忘れ、立ち尽くしていた。『バレーボールをしてた新太くんが、好きだった。この気持ち、忘れないから、わたし』 捨てられずにいた想いを伝えたことで、きっと彼女の中の俺は役割を終えたのだ。たぶんもう、二度と会うことはない。――そう思っていたのに。さゆちゃんはゆっくりと足を進め、ケースの前に立った。俺とは目を合わせないまま、長い髪を耳に掛け、中を覗き込む。さすがに気を使ったのか、三村さんがこちらに背を向け、作業台の上で何やら雑用を始めた。その気遣いに感謝し、一呼吸おいてから、改めてさゆちゃんに向き直る。「この前は、……」 さゆちゃんが顔を上げ、俺は言葉に詰まった。 何を言えばいいんだろう。 ありがとう、というのも何だし、ごめん、というのもおかしいし。 長引く沈黙に困っていると、彼女の方が先に口を開いた。「――バイト、やめるの?」「えっ?」 思いがけない問いかけに、目を瞬く。「外に、張り紙あったから。店番のバイト募集って」「……ああ、」 俺は合点し、頭を掻いた。「違うよ。俺が、中に入ることになったから」「中?」「うん。厨房にね。副店長の補佐って言うか。だから、店番がもう一人、必要になったんだよね」「……ふうん」 さゆちゃんは拗ねたような表情で目を伏せ、「じゃあ、お店に来てももう新太くんに会えないんだ」「……」 ――あれ。 あれれれ。 胸の奥がウズウズとくすぐったくなって、俺は思わず胃のあたりを押さえた。 さゆちゃんて、……こんな可愛かったっけ。 三村さんが全身を耳にしてこちらをうかがっている気配がする。 照れくささと戸惑いで軽くパニックになり、俺は「まあ、今後とも変わらずごひいきに」と若干寒い返しをしてしまった。 クフッと笑いを漏らしたのは三村さんだ。やはりしっかり聞き耳を立てているらしい。「今日は、いっぱいあるね」「え、はい?」「フルーツタルト。この前から気になってたんだ。今日は買ってもいい?」「も、もちろん」 俺は使い捨てのビニール手袋が入った箱に手を伸ばした。 勢い余って指先が触れ、弾かれた箱が床の上にぽとりと落ちる。 慌てて拾ったが、手が滑ってもう一度落とす。「……大丈夫?」「大丈夫、ぜんぜん大丈夫」 挙動不審な俺を見て、さゆちゃんは怪訝そうな顔をしている。 なんだこの子は、あんな可愛いことを言っておいて、無自覚か。 ケースの下に入り込んだ箱を捕まえ、やっと拾い上げた時、――もう一度、ドアベルが鳴った。 来店した男性客は走って来たのか、軽く息を切らしていた。 濃グレーのスーツに黒いハーフコートを羽織った、サラリーマン風の男性だ。 顔を見た瞬間、びっくりするほどイケメンだな、と思った。 うちの副店長――羽田さんといい勝負かもしれない。「いらっしゃいませ」 言ってから、三村さんの声が聴こえなかったことに気付き、視線を送る。 三村さんは突然現れたイケメンに見惚れているようだった。すぐに我に返り、とびきりの笑顔を作る。「いらっしゃいませっ」「……」 なんか上目使いしてるし声がオクターブ高いし。急にどうしたんだこの人は。 ふと見ると、あろうことかさゆちゃんまでイケメンの方をチラチラ気にしている。 ――まったく、これだから女っていうのは。 心の中で舌打ちを高速連打していると、イケメンと目が合った。「こんばんは」ぺこりと頭を下げるイケメン。イケメンなのに腰が低い彼に、俺は好印象を持った。「こんばんは。只今うかがいますので」 営業用の笑顔を向けておいて、使い捨ての手袋を素早くはめる。 先にさゆちゃんご所望のフルーツタルトを取り出そうと、ショーケースに歩み寄ったところで、「お急ぎでしたらお先にどうぞ」 さゆちゃんがヒョイと端に寄った。 思わずイケメンと顔を見合わせてから、さゆちゃんが順番を譲ろうとしているのだと気付いた。「いえ、でも……」「いいんです。私、じっくり選びたいから」「……」 イケメンが俺の方を見る。いいのかな、という顔。「では、……もしお決まりでしたら、先にうかがいます」 彼のほっと安堵したしたような顔を見て、危うく俺まで胸がきゅんとしそうになる。 女の子に順番まで譲ってもらえるとは……イケメンとは、一般人よりもかなり生きやすい生物であるに違いない。 そういえば三村さんは何してるんだ、と見ると、――彼女はショーケースの裏側にしゃがみ込み、あぶら取り紙をせっせと鼻に押し当てていた。「……」 改めて言いたい。 まったく、これだから女ってのはっ。「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……」 イケメンはさゆちゃんに頭を下げ、カウンターの前に立った。 なぜか俺と見つめ合ってから、「あ」と思い出したようにコートのポケットを探る。「――これ、お願いします」 広げて目の前に差し出された白い用紙。 俺は「えっ」と声を上げた。 その反応を見て、さゆちゃんがさりげなくイケメンの手元に視線を走らせる。『注文票 / お客様控え / 椎名萌 様』「……」 これは……。 お客様控えと注文票、そしてイケメンの顔を何度も見比べる。 ――まさか、こいつが……。 湧き上がった嫌な予感に慌てて蓋をする。 いや、まだ分からない。諦めるな。 まだこいつが“はるきち”だと決まったわけじゃ――。 すがるような気持ちで、俺は聞いた。「失礼ですが、椎名さんの、――ご家族の方ですか」「えっ」イケメンが戸惑う。「……いえ、家族というか……」 当然の反応だ。普通なら、注文票をこうして持っている相手に注文者との続柄を確認することはない。 踏み込んだ事を聞かれて怒るかな、と思ったが、――さすがイケメン。「注文した当人が熱を出して寝込んでまして。代わりに、自分が」 不快な顔ひとつせず、素直に答えてくれた。 イケメンはこんな些細なことで不愉快になったりはしないのだ。 その余裕がまた、何とも腹立たしい。「あら、これって……」 いつの間にか三村さんが隣から注文票を覗き込んでいた。 俺と同じようにイケメンと注文票を交互に見て、「――もしかして、椎名さんの彼氏さん?」 ひぃっ、と心の中のちっちゃい俺が悲鳴を上げた。 恐れていた言葉を横からあっさり口にされた衝撃に、両耳を塞いでこの場から逃避したくなる。「……ええと……」 イケメンは眉の上を人差し指で掻いた。 そして、――俺の願いも虚しく、「はい」と照れたように笑った。「……」心の中のちっちゃい俺がぱたりと倒れる。「やっぱりねえ」 石膏のように固まった俺の背中を、三村さんがバシンと叩いた。「残念!!!新太くん、失恋決定ね!こりゃ勝ち目ないわあ」「……」 俺は引きつった笑顔を浮かべ、「ですね……」と言うのがやっとだった。 背中を叩かれた弾みで、魂がどこかへ飛んでいった気がした。  俺が抱いた淡い恋の終わりは、あまりにもあっけないものだった。 気まずそうな表情のイケメンの隣では、さゆちゃんが壁の方に顔を背け、笑いを噛み殺していた。***** 厨房に入って行くと、羽田さんが生クリームを絞り袋に詰めているところだった。「18:30予約のホールケーキ、取りに見えました」「用意出来てるよ。ごめん新太、出してくれる?上の段に入ってる」「わかりました」 手袋を着け、冷蔵庫の中のケーキを慎重に取り出す。 見ると、ホワイトチョコで出来たメッセージボードには、すでにメッセージが入っていた。『HAPPY BIRTHDAY はるきち』 この文面を考えていた椎名さんの真剣な表情を思い浮かべ、感慨にふけっていると、羽田さんが「大丈夫?」と心配そうに俺の顔を窺った。「すみません、大丈夫です」 俺は小さくため息をついて、「たった今、こっぴどく失恋しましたけど、大丈夫です。……いや、違った。最初から失恋してたんだった。やっぱりなんでもないです」 羽田さんは目をぱちくりしてから、困ったように微笑んだ。「まあ、大丈夫。失恋は次の恋のためにあるって、俺の知ってる人が言ってた」 カッコつけたセリフも、極上イケメンが言うと胸焼けを覚えないのだから不思議なものだ。「いい言葉ですね」「でしょ?」「ちなみにその人、次の恋、うまくいったんですか」「どうだろうね。もしうまくいかなくても、また次で頑張るんじゃない?」「……なんかそれ、あまりにもポジティブな考え方ですね」「そうだね。でも、なかなか悪くないと思わない?」「まあ、確かに」 ケーキを箱に収め、店に戻ろうとして、ふと振り返る。「羽田さんにもあるんですか、失恋の経験」「あるよ、もちろん」「次の恋、すぐ来ました?」「来るわけないじゃん。現実はそううまくいかないよ」 そう言って、羽田さんはいたずらっぽく笑った。***** 店に戻ると、三村さんがすでにお会計を済ませてくれていた。「佐々木くん、早く早く。椎名さんが眠ってる間に戻ってあげたいんですって」「あ、はい。すみません、お待たせしました」 急かされながらも、足元に気を着けながら慎重にケーキを運ぶ。「こちらになります。ご確認お願いします」 箱の蓋を開けたままケーキを差し出すと、“はるきち”は中を覗き、ふっと口元を緩ませた。 その顔を見て、この人はきっとこの簡素なメッセージの中に、彼女が迷いに迷った様子を読み取ったんだろうな、と思った。 そこには二人の歴史とか、強いつながりとか、……上手く言えないけどそういうものがあって。 だから俺がわざわざ説明しなくても、過程を知らなくても、彼女が一生懸命考えた結果の『HAPPY BIRTHDAY はるきち』なんだってことが感じ取れるんだろう。 俺も、いつかそういう恋が出来るだろうか。 何も言わなくても通じ合えるような、自分よりも相手を大切に思えるような、そんな恋が。「どうもありがとう」 “はるきち”は三村さんと、俺と、それから順番を譲ってくれたさゆちゃんにもきちんと目を合わせ、会釈した。 ケーキを手に、出口に向かう。「――あの、彼氏さん」 戸惑いながら振り返ったイケメンに、俺は言った。「俺、ちゃんと諦めるんで。……だから、……また、ケーキ買いに来てください。あと、……椎名さんと、お幸せに」「……」 余裕の笑顔でも見せるかと思ったけれど、“はるきち”は目を丸くして、それからすごく真剣な顔をして、頷いた。「――ありがとう。幸せにします」 思いがけずイケメンが放った、めまいがするほどイケメンな一言に、三村さんとさゆちゃんがうっとりと頬を赤らめる。 ――そして、――。 悔しいけれどたぶんこの時、俺も二人と同じ顔をしていたと思う。

洋菓子店員の恋-5-

 ドアをくぐってみると、実際の部屋は写真で見た印象よりずっと狭く、薄暗く感じられた。 やたら大きなベッドがほとんどのスペースを占めている。 他にあるものと言えば、二人で座るには狭すぎるソファと小さなローテーブル、金庫みたいな小型冷蔵庫、そして――ガラス張りの風呂。「……」 ガラス張り、だと……? いくらなんでもこれはさすがに、と固まっていると、さゆちゃんがスタスタとソファに歩み寄った。 荷物を置き、白いコートのボタンを外し始める。 その下から現れたタートルネックセーターは淡いブルーで、色白な彼女によく似合っていた。 くっきりと形の浮き出た小さめの胸から急いで目を逸らし、慣れた感じを装いながらベッドに近づく。 少し勢いをつけて腰かけると、スプリングは想像以上に弾力があり、軽く体が跳ねた。「バイトで疲れてるでしょ?」「え?」「お風呂、お湯張ってくるね。シャワーだけだと疲れが取れないから」「あ、……うん」 奥さんみたいなことを言って小さなドアの向こうに消えた彼女の姿が、すぐにガラス壁の向こうに現れる。 風呂場の電気が点くと、まるであちらが舞台でこちら側が観客席のように感じられた。「……」 ――これは……こういうものなのか? 誰かに見られながら風呂に入るなんて、初心者にはハードルが高すぎる気が……。 ていうか、俺はともかくさゆちゃんは嫌じゃないんだろうか。 あれこれ余計な考えを巡らせる俺をよそに、さゆちゃんは慣れた手つきで風呂の栓をし、蛇口から吐き出されるお湯の加減を確かめている。 すると、立ち込めた湯気によって次第にガラスが曇り、さゆちゃんの姿がぼんやり霞み始めた。 ――なるほど。 これで丸見えではなくなるというわけか。 安堵半分、がっかり半分で肩の力が抜け、俺はそのまま後ろにごろりと寝転がった。 鏡張りの天井に映った間抜けヅラと目が合い、軽蔑を込めた視線を送ると、それはそっくりそのまま俺に跳ね返って来た。 ――もしかして、さゆちゃんは慣れてるのかな、こういうとこ。 落ち着いた様子だし、少なくとも初めてではないように思える。 ガラス張りの風呂にも動じなかったし、色々と手際もいいし。 意外と経験豊富なのかもな、などと考えてから、いやいや、と思い直す。 きっとさゆちゃんが特別なわけじゃない。 それくらいで普通なのだ。 高3も終わり近くなって初ラブホだなんて、……遅れを取ってるのは俺の方だ。 ため息をつきながらぐるりと身体を返してうつ伏せになる。 焦燥感と羞恥心のようなものが湧き上がり、ジワリと胸を焦がした。 自分の経験不足が恥ずかしく、虚しい。 ――まあ、今さらしょうがないんだけど。 実際、色恋沙汰とは縁遠い高校生活だったんだし――。「……」 いや。――違う。 本当は俺だって、こういう場所にまったく縁が無かったわけじゃない。 『――私、今夜は遅くなるって、お母さんに言って来たの』  耳元に蘇った、微かに震える、囁くような声。 あの時も、今日みたいに冷え込んだ夜だった。 1年以上も前のことだ。 当時付き合っていた彼女と久しぶりに遊んだ帰り道。 駅に向かう途中、通りかかったホテルの前で、彼女は俺の手を握って立ち止まり、そう言った。『もう少し、新太くんと一緒にいたい』 彼女なりに勇気を振り絞ってくれたのだと思う。 あの時、俺は恥ずかしそうに俯く彼女の背中に手を添え、そのままホテルに入りさえすればよかったのだ。 でも、――。『今日はもう遅いから、帰ろう』 俺は彼女の精一杯の勇気を踏みにじった。 翌日から始まる遠征合宿のことで頭がいっぱいだったから。 隣で顔を伏せたままの彼女の手を引きながら、俺は明朝の出発時間から逆算し、何時に起きればいいかを考えていた。 ――俺、今まで何やってたんだろ。 バレーボールに夢中になっているうちに、気付けば高校生活も残り少なくなってて。 もちろん、他のことと部活を両立できない不器用さは自分の責任だ。 というよりもむしろ、――バレーボールのために他の全てを犠牲にすることを、俺はどこかで快感にも感じていたんだと思う。 これだけ頑張っているんだから必ず報われる、なんて。 だから色んなことを我慢して、わき目もふらずに必死で突き進んで。 蓋を開けてみれば、結果は出せずじまい。 高校3年にもなってロクな恋愛もしたことがない、ただの童貞ヤローの出来上がり。 ――なんつーか俺、……めちゃくちゃ、ダセェ……。 情けなさのあまり目の奥に微かな熱を感じ、急いで目を閉じる。 バレーボールなんか、最初からやらなきゃよかった。 どんなに努力しても、どんなにバレーが好きでも、チームから必要とされなければそこに意味なんてない。 全部無駄だったんだ。 俺の中学からの6年間は、無かったのと同じ。「――コート、シワになっちゃうよ」 うつ伏せのまま顔だけ向けると、いつの間にかベッドの傍らに立っていたさゆちゃんがこちらを覗き込んでいた。 黙って見上げていると、不思議そうに目を瞬き、首を傾げて長い髪を耳に掛ける。「ハンガーに掛けるから、ちょうだい」 こちらに差し出された、細長い手のひら。 俺はその手を掴み、力任せに引き寄せた。 キャッ、というか細い悲鳴とともに、さゆちゃんがベッドに倒れ込む。 入れ替わりに身体を起こし、間近から見下ろした彼女の目は大きく見開かれていた。 顔にかかったきれいな髪を、そっと人差し指で除ける。 陶器のようにきれいな頬は、ほんのり紅く染まっていた。「新太くん、……」 ゆっくり顔を近づけると、艶のある綺麗なまつ毛が微かに震えた。 顔を背けられるかな、と思ったけれど、彼女はそうしなかった。 置き場のわからなくなった視線だけが、ぎこちなく逸らされる。「……待って。コートがシワになっ……」 さっきと同じセリフを繰り返そうとした彼女の唇を、俺は強引に塞いだ。 ――女の子って、なんでこんなに甘い匂いがするんだろう。 吸い付くように柔らかな、少し冷たい唇を舌でこじ開けると、さゆちゃんは切なげに呻いた。 遠慮がちな手のひらが俺の背中を伝い、そっと首に巻きつく。 ……やべえ。 このままだと思考が停止して、――サルになりそう。 身体が燃えるように熱を帯び、激しい鼓動が頭の中を隙間なく埋めていく。 薄いニットの裾を探り、手のひらを滑り込ませる。 塞がれた唇から、ん、と微かな声を上げ、さゆちゃんは逃れるように身をよじった。 ――このまま、何も考えられなくなればいい。 頭が空っぽになって、俺自身も空っぽになって。 そのまま、全部捨ててしまおう。 バレーへの想いも、注ぎ続けた情熱も、小学生の頃の無邪気な夢も。 だってそれは、どうやっても取り戻せないのだから。 惜しむ必要なんてない。 もう、俺にはいらないものだ。『――新太くんのジャンプサーブは本物だと思う。これからもがんばってね。大学のバレー部で会おう』 胸の奥で何度も繰り返し再生し、励みにしたユキエ先輩の言葉。 あの時、舞い上がった俺は先輩に何と答えたのだろう。 自分にはバレーボールしかないと、――チームから必要とされていると信じていた、あの頃の俺は。 ――ユキエ先輩、すみません。 約束、守れませんでした。 俺のバレーは、ここまでです。 瞼の裏で、ユキエ先輩の面影が少しずつぼやけ、滲んでいく。 そして、――。 入れ替わるようにして浮かび上がったのは、椎名さんの笑顔だった。 ――そうか……。 俺は、逃げたかったんだ。 過去の自分と今の自分を切り離したくて、椎名さんの包み込むような優しい笑顔にすがろうとした。 そして、それが叶わないと思い知らされた今、 ――今度はさゆちゃんに逃げ込もうとしている。「――どうしたの」 ゆっくりと体を起こした俺を、さゆちゃんは戸惑ったような表情で見上げていた。 その瞳の中に、救いようのないほど情けない自分の顔を見つけ、やれやれと息をつく。「ごめん。調子に乗りすぎた」「……」 たくし上げたセーターの裾を引き下ろし、さゆちゃんの隣にドサリと仰向けになると、二人の姿が天井の鏡に映った。 こうして並ぶと、明らかにさゆちゃんの方が大人びて見える。 身長があまり変わらないせいもあるかもしれないが、高校生のカップルというよりはまるで姉と弟みたいだ。「さゆちゃんはうすうす気づいてると思うけど。本当は俺、こんなことする度胸ないんだ。……カッコつけてごめん」「……」「なんか、あんな風に誘った手前、引っ込みつかなくなっちゃったんだよね。まさか本当に誘いに乗って来るとは思わなかったから、――」 そう言いかけて、苦笑する。「いや。ごめん、それも嘘。……あんな風に言えば、さゆちゃんはきっと負けず嫌いだから断らないだろうって、ちょっと思ってた。だから、わざと挑発するような誘い方、した」 天井に貼り付いたさゆちゃんは、静かな表情で俺の顔を見ていた。 しばらく鏡越しに見つめ合った後、隣から呆れたようなため息が聞こえた。「そんな風に見える?」「……え?」「私、……ちょっと挑発したくらいで簡単にホテルについてくるような女に見える?ってこと」「……」 首を巡らせてさゆちゃんの方を見ようとした瞬間、目の前にボスッと枕が押し付けられた。 引き下ろすと、こちらを軽く睨むさゆちゃんの視線とぶつかる。 むっと口を尖らせた表情が、何だか子供っぽくて可愛かった。「そんな風に見えるか見えないかって聞かれたら……」「見えるんでしょ?」「いや、見えない。……けど」「けど?」「けど、……そう見えなくても、実際そうじゃん。さゆちゃんは現にこうしてよく知らない相手と一緒にホテルにいるわけでしょ」「……」 さゆちゃんの眉が、きゅっと中央に寄せられた。「新太くんて、意地悪だよね」「そう?」「理屈っぽいし、女の子に優しくないし」「まあ、それは自覚してるけど」「だいたい、よく知らない相手だなんて決めつけないでよ。新太くんにとってはそうでも、私にとっては――」「……?」 さゆちゃんはプイと寝返り、枕を抱くようにしてこちらに背中を向けてしまった。 わけが分からずポカンとしていると、少し間を置いてから、細い肩の向こうから小さな呟きが聞こえて来た。「……私にとっては、違うんだから……。私は見てたもの、ずっと前から、新太くんの試合。――コハルの後ろで、いつも」「――」 勢いよく体を起こすと、ベッドのスプリングが軋み、ゆらりと身体が弾んだ。「……コハル?」 身を乗り出して上から覗き込むと、さゆちゃんは抱いた枕に顔を埋めていた。 こちらを向かせようとしたが、強情な肩はピクリとも動かない。「さゆちゃん、――小春を知ってるの」 混乱したまま、問いかける。 それは、久しぶりに口にした、俺の唯一の元カノの名前だった。 さゆちゃんの手が、ぎゅっと枕を握り締めるのが見えた。「知ってるよ。同じ中学だもの。それに……。新太くんのことも、知ってた。……中学の時は私も、小春と同じバレー部だったから」 マジで、と思わず漏れた俺の声は、お湯が満タンになったことを告げるお風呂のメロディーコールにかき消された。***** 記憶が一気に遡る。あれはもう、4年以上も前のことだ。 小春と初めて知り合った、中学の都大会。 2年だった俺は既にレギュラーで(思うにあの頃が俺のピークだった)、高揚感冷めやらぬ試合後の会場で、隣町の中学の女子バレー部だった小春が「連絡先を交換したい」と声をかけてきたのだ。 ――いや。 正確に言うと、実際に話しかけて来たのは小春の友達だった。『あの子が、良かったらここにメールしてだって』 自分の背後を親指で示し、小春の友達は1枚の紙切れを差し出した。 ちらりと視線を向けると、柱の陰でもじもじしている女の子――小春が、遠目にも可愛い子だと分かった。『あ、そう。……練習忙しいから、出来るか分かんないけど』 ガッツポーズしたくなるほど嬉しかったくせに、妙なカッコつけ方をしてから手を伸ばすと、紙切れがスッと逃げた。『忙しくてもメールくらい出来るでしょ。アドレス受け取るなら絶対、してあげて。短くてもいいから。しないつもりなら今、はっきり断って』 偉そうな女だな、と思った。言っていることが正論なのが余計に気に入らなかった。 顔は覚えていない。ポニテのかなり背の高い子だったことは記憶にある。そして、――その時の彼女が、やけに機嫌が悪く、無愛想だったことも。「もしかして、……あの時の?」 さゆちゃんがゆっくりとこちらに顔を向けた。 その目は赤く充血し、うっすらと涙が浮かんでいる。「言わないつもりだったのに……新太くんがイジワルなこと、言うから」 ず、と鼻を啜り、恥ずかしさを誤魔化そうとするような、責めるような目でこちらを見上げる。「わたし、新太くんのこと、……小春と付き合うことになったから、がんばって諦めたんだよ。なのに……。――どうして、別れちゃったの。……どうして、小春にもっと優しくしてあげなかったの」「……」 俺はゆっくりと体を起こした。ベッドの上で正座し、自分の両膝を握り締める。 何も言えなかった。さゆちゃんの“どうして”に、俺は一つも答えられない。 背中を丸めて項垂れていると、さゆちゃんも起き上がり、俺の方に向き直った。「もう、新太くんに会うことはないだろうなって思ってた。わたし、バレーやめて高校ではテニス部に入っちゃったし。だから、……合コンで再会した時、ホントにびっくりして」 そこで、何やら恨みがましい目をこちらに向ける。「再会できたことは嬉しかったけど、ショックだったんだから。わたしのこと、まったく覚えてないし」「――それは……」 そこは思わず反論する。「しょうがないと思う。俺じゃなくても気付けなかったよ。だってさゆちゃん、すごく綺麗になったし」「……」 さゆちゃんは怒ったようにむっと唇を尖らせたかと思うと、――徐々に顔を赤く染めていった。 口を開きかけたが、言い返す言葉が思いつかなかったのか、「バカ」とだけ呟く。「……」  俺はその表情をまじまじと見つめた。 これは……。 喜んでる、のか? 罵倒でもされるかと身構えていたところを拍子抜けし、頬が緩みそうになるのを寸前で堪える。つい口走った本音だったが、思いのほか効き目があったようだ。「……さゆちゃんてさ」「なに」「素直じゃないよね。プライド高いし」「……」 今度はショックを受けたのか、眉がふにゃっと八の字になる。 意外なほど分かりやすい反応に、俺はふっと笑った。「ひどい。どうして笑うの」「笑ってないよ」「笑ってるじゃない」「まあ、いいじゃん。俺はかわいいと思うよ、そういうとこ」「ちょっと、……もう、いいからやめてよ……」 恥ずかしさに耐え切れなくなったのか、さゆちゃんがグーで俺の胸元にパンチを打ち込む。 かなり効いたが、代わりにいい表情を見せてもらったのでダメージはプラマイゼロ。どちらかというとプラス寄りだろう。 ――”素直じゃなくて、プライドが高い”か。 それはそのまま自分にも当てはまるな、と思った。 俺たちには、わりと似たところがあるのかもしれない。「……新太くん」「ん?」「ひとつ、言ってもいい?」「なに」 少し迷ってから、さゆちゃんが続ける。「わたしね。ずっと、伝えたかったことがあって、新太くんに。もう本人に言う機会はないだろうって、思ってたけど……。このままじゃ、ずっと引きずっちゃいそうだから。今、伝えるね」「……?うん」 彼女は俺の手を大切そうに両手で包み、軽く深呼吸してから口を開いた。「合コンの時、新太くんがバレーボールやめたって聞いて。すごく、ショックだった。やめてほしくないって、思った。新太くんのバレー、大好きだったから。憧れだったの。しなやかで、それでいて力強くて。試合の時、新太くんのことだけ目で追ってた。ずっと見ていたいって感じた」 うるんだ目が、真っ直ぐにこちらを見上げる。「バレーボールをしてた新太くんが、好きだった。この気持ち、忘れないから、わたし。何年も前のことだけど、今でも、目を閉じると浮かぶの。コートの中に居る新太くんの姿。もう新太くんのプレーが見られないのは、悲しいけど。――これからもこうして、ずっと覚えてるから」 そう言うと、さゆちゃんは少しだけ微笑んだ。「それだけ。……聞いてくれてありがと。すっきりした」「……」 熱いものがじわじわと込み上げ、胸がいっぱいになる。 俺は「うん」とだけ言って声を詰まらせた。 続きの言葉を呑み込んだまま、さゆちゃんの身体をしっかりと抱きしめる。 嬉しかった。本当に、泣いてしまいそうなくらい。 ――今、分かった気がする。 コートを去ってから俺はずっと、何か忘れ物をしたような気がしていた。 どんなに言い聞かせても、どうやってもフッきれなくて、何度も後ろを振り返って。 その忘れ物の正体が今、分かった。 もしかしたら俺は、バレーボールをやめたことを自分以外の誰かに責めてほしかっただけなのかもしれない。 引退を惜しまれたかった。誰かに「続けてほしい」と、「やめてほしくない」と言ってもらいたかった。 自分がバレーに賭けた日々が、少なくとも無駄ではなかったと、そう思いたかったのだ。 やめる覚悟はとっくに決まっていた。なのに、そんな女々しい思いだけが俺の脚を引っ張り、前に進ませまいとしていたんだとしたら……。「……ガキだな、俺は……」 泣きたい気分でそう呟くと、さゆちゃんの手のひらが俺の頭を優しく撫でた。 否定も肯定もされなかったが、赦された気がした。ずっと沈んでいた心が少しだけ軽くなった。「さゆちゃん」「ん?」「実は俺、いま泣きそうなんだけど」 さゆちゃんは俺の顔を見て目をぱちぱちと瞬いてから、ふふ、と笑った。「いいよ、泣いても。憧れの彼女には黙っててあげる。それから、稲垣くんにも」 さすがに泣き顔は見せたくなかったので、俺は部屋の灯りを落とした。 考えてみたら、バレーをやめたことで泣くのはこれが初めてだ。 閉じ込めていたものをすべて流し終え、そして、この涙が乾いたその時、――。 俺は今度こそ、言い訳ナシで前に足を踏み出せるかもしれない。 バレーコートの中の忘れ物を、誇らしさと思い出に替えて。

洋菓子店員の恋-4-

 メイン通りを左に折れると、駅に続くアーケード商店街に入る。 この時間帯は駅からこちらに向かって来る人の流れの方が多いので、逆流する俺たちは出来るだけ道の端を進んだ。 すでに営業時間を終えてシャッターを下ろした店も多い中、飲食店やカラオケ店だけは盛況だった。 居酒屋の前では、酔った学生風の集団が輪になって騒いでいる。 隣の店のシャッターの前でたむろして、地べたに座り込んで何やら真剣に語り合っている人たちもいる。 今は別世界に思えるけれど、大学生になったら俺たちもあんな風になるんだろうか。 そして、卒業して社会人になれば、今度はそんな大学生たちを見て眉をひそめているあの通りすがりのサラリーマンのようになるんだろうか。「可愛かったね。さっきのひと」 唐突だったので、一瞬誰のことを言っているのか分からなかった。 知らないうちに可愛い女の子とでもすれ違ったのかと思い、後ろを振り返って見回していると、「違うよ、さっきのお客さん。嬉しそうにしてたじゃない、新太くん」「……ああ」 椎名さんのことを言っているのだと分かったが、何と答えていいかはわからず、言葉を探した。「だね。俺もそう思う」 言ってから、我ながら間抜けな答え方だなと思った。「好きなの?」 拗ねたようなニュアンスを感じ、俺は隣を歩くさゆちゃんの方を見た。 いつもの生意気そうな表情を想像していたが、今だけは違った。 うつむく横顔は、まるで叱られるのを待つ子供のように見えた。「……改めて聞かれると、困るな」 俺は首をかしげ、「だって俺、お客さんとしてのあの人しか知らないし、店員としてしか接したことないし。彼女と付き合いたいのかって考えると、ちょっと違う気もする。あの人に手を出す自分とか、想像できないから。……ただ、すごく気になる人では、ある」「……」 さゆちゃんは、ふーん、と蚊の羽音みたいな相づちを打ち、黙ってしまった。 俺がぼんやりとした答え方をしたから、ぼんやりした相づちしか打てなかったのかもしれない。「それなら、……」 しばらく黙って歩いてから、さゆちゃんが言った。「本気で好きになる前に、彼氏がいるかどうか聞いてみた方がいいと思う」「……」 俺は思わず足を止めた。咄嗟に握ったブレーキが軋むような音を上げる。 さゆちゃんも立ち止まり、こちらに顔を振り向けた。「それ、どういうこと」「……」「前から知ってたの?あの人のこと」「……知らない。初めて会った」「じゃあ、なんで……」 言いかけて、俺はふと思い当った。「何か、見たの?さっき、店を出た後に」「……」 さゆちゃんは目を逸らし、長いまつ毛を伏せた。 下り電車が通り過ぎたばかりなのか、駅からの人波が一時的に増幅していた。 若いサラリーマンがすれ違いざま、さゆちゃんの太ももをちらりと盗み見て行った。「……あのまま帰ろうと思ったんだけど、……わたし、後悔して途中で引き返したの。お店に向かってたら、さっきの広い道に出たところで、あの人が前から歩いて来るのが見えて、それで……」 言い淀んでから、続ける。「後ろから走って来た車がすぐ傍に停まったの。あの人、すごくびっくりして、でもすごく嬉しそうな顔して、助手席に乗り込んで行った」「……」「運転してたのは若い男の人だった。家族とかじゃないと思う。……軽くだけど、キスしてたから……」 その光景が目の前にちらつき、俺は思わず目を閉じた。それでも、脳裏に映し出される映像は消えない。 瞼の裏に強引に彼女の笑顔を思い浮かべてみたけれど、余計に胸が苦しくなるだけだった。 黙って歩き出すと、少し遅れてさゆちゃんもついてきた。 まだ駅は見えてこないが、ホームに響くアナウンスが微かに聞こえて来る。アーケードの先にあるロータリーに、客を待つタクシーが数台、退屈そうに並んでいるのが見えた。「……ごめん。言わない方が良かった?」「……」 強がりを言う気力もなく、俺は弱々しい苦笑いを浮かべた。「まあ、……無駄にショックを受ける必要はなかったかな。分かってたことだし」「……え」「知ってたよ、俺。あの人に彼氏がいること。今日だって、彼氏のバースデーケーキ、嬉しそうに予約して行ったんだよね。分かった上で、それでもあの人に会える金曜日が待ち遠しかった。ただ、それだけのことだから」「……」「言っただろ。そもそも俺は彼女と付き合いたいなんて思ってない。考えてもみなよ。店で会うだけの、よく知りもしないお客さんを本気で好きになるなんて、ありえると思う?これは現実の恋愛とは違うんだよ。都合よく彼女に自分の理想を当てはめてるだけ。だから別に、自分に都合のいいところだけ見てればそれで良かったんだ。-―さゆちゃんだって、そうだろ」 ブーツの足音が途絶える。立ち止まって振り返ると、さゆちゃんは驚いたような顔をしていた。「一度しか会ったことがない俺に、何を期待してるのか知らないけど。俺はさゆちゃんが思ってるような人間じゃないよ。他の男らと違って思い通りにならないところが物珍しいなら、それは単に俺が恋愛慣れしてないだけ。いつも自分のことで精いっぱいで、一つのことにしか夢中になれなくて、だから女の子にも優しく出来なくて、せっかく出来た彼女にもフラれて。俺なんて、そんなもんだよ。理想通りの男じゃなくて、悪いけど」 冗談めかそうとしたつもりが、そうはならなかった。 女の子相手に女々しいセリフを吐く自分の痛さに、笑えた。 再び歩き出すと、少し間を置いてブーツの足音が後を追って来た。「ごめんなさい」という小さな声が聞こえたけれど、俺は聞こえないふりをした。 情けない本音をぶちまけてしまった今、もうすべてがどうでもいいことのように思えた。 アーケードを抜けてロータリーに出ると、改札に続く階段はすぐそこだった。見上げた高架上のホームには煌々と灯りが灯り、まだ多くの人影がある。「じゃあ、ここで」 俺は数歩歩いたところで立ち止まった。「金曜日だし、電車の中で酔っ払いに絡まれないように気を付けて」「……」 さゆちゃんの顔をまっすぐ見られず、自転車のハンドルを握る自分の手を見つめる。 カギで傷つけた親指には、まだ血がにじんでいた。「それじゃ」 ハンドルを切りかけ、寸前でその動きを止める。 さゆちゃんの右手が、自転車の前かごをしっかりと掴んでいた。「新太くん」「……なに」 真剣な表情に、思わずたじろぐ。「今からカラオケ、行かない?」「……」 突拍子もない提案に、俺は目を瞬いた。「今から?」「うん」「いや、もう行かないと終電なくなるよ」「だから、朝まで」「……」「何だか今から帰るの、面倒になっちゃった。この時間帯の電車って、けっこう混むんだよね。それにほら、今日はケーキ持ってるから酔っ払いに絡まれたりしてもひじ打ちできないでしょ。もし暇だったら始発まで付き合ってもらおうかなって」 一気にそう言い終えると、少し遅れて彼女の顔が真っ赤に染まっていった。「いやなら別にいいけど」と可愛げのない言葉を付け足すことは忘れない。「……」 どうやらこの子は、自分のせいで落ち込んだ俺を慰めようとしてくれているらしい。 やっぱり可愛いところがあるな、と思った。いじらしさを微笑ましく感じ、――同時にふと、苛立ちのようなものを覚える。 ――ていうか、さっき俺が言ったこと、ちゃんと聞いてたのかな。 さゆちゃんが見ているのは、俺であって俺じゃない。 彼女が頬を染めている相手は、身勝手な理想を当てはめ、作り上げた幻影のようなものだ。 俺が椎名さんに対して抱いている独りよがりな想いと、同じ。 そんな曖昧なものでしかないのに、簡単に俺への好意をちらつかせ、こうして心を揺さぶろうとする彼女を、残酷だと思った。「……いいよ」 意地の悪い気持ちが湧き上がり、俺の中で大きく膨れ上がる。「カラオケじゃなくて、ホテルなら」「……」 さゆちゃんの目が大きく見開かれる。罪悪感で胸がチクリと痛んだが、自虐的な愉悦がすぐにそれを押し流した。 彼女が胸に抱いている理想の俺をボコボコに殴りつけ、傷つけ、ぶち壊してやりたい。そう思った。「慰めてくれるつもりなんだよね。どうせならやらせてよ。カラオケだと監視カメラもあるし、店員がうるさいからさ。――いやなら別に、いいけど」「……」 さゆちゃんは俺をまっすぐに見返し、唇を噛みしめていた。 気の強そうな瞳は少しだけ潤んで見える。 ――怒り出すか、それとも泣き出すか。 平手打ちも覚悟していたが、どこかでそうはならない気がしていた。 そして、――俺の予想は当たった。 さゆちゃんは黙ってケーキの入った紙袋を自転車のかごに入れ、ショルダーバッグを探ってスマホを取り出した。「ちょっと、待ってて」 長い指で画面を操作し、耳に当てながらこちらに背中を向ける。「ママ?わたし。……今日ね、ミオの家に泊まるから。ううん、大丈夫。明日の午前中には帰る。うん、……うん」 電話の間、俺はぼんやり彼女の細い肩を見つめていた。 初めて聞く、彼女の少し子供っぽい声だった。甘えているような、照れているような、話を早く切り上げたがっているような。 少し早口になっているのが家族と話しているからなのか、嘘をついているせいなのか、……失望を俺に悟られまいとしているからなのか、俺には分からなかった。***** 入り口で年齢確認されたらどうしよう、などと内心ビクビクしながらエントランスに足を踏み入れたが、どうやらこのラブホテルには受付というものが存在しないようだった。 こちらを静かに見つめる監視カメラを気にしつつ、絨毯の敷き詰められた廊下を進んでエレベーターホールに出る。 右手の壁一面にはめ込まれた液晶画面には、いくつかの室内の画像が映し出されていた。 それぞれの画面の右下には『ガーベラ』とか『アマリリス』とか、よく分からない花の名前と料金が表示されている。 とりあえず、この中から泊まりたい部屋を選ぶらしい。 ところどころ画面が暗転しているのは、そこが現在使用中ということなのだろう。 なんだかやけに生々しい。「いいよ、好きな部屋選んで」 カッコつけてそう言ったが、これはドラマか何かで聞きかじったことのあるセリフを真似てみただけだ。 こういうところに来るのはもちろん初めてで、だけど出来ればそれを悟られたくはなかった。 さゆちゃんは液晶画面をざっと眺め、あまり迷う様子もなく一番シンプルな部屋を指差した。 スーパー銭湯の自動券売機みたいな機械で支払いを済ませ、エレベーターに乗り込む。 何となくそうした方がいいような気がして、俺は隣に立つさゆちゃんの手を取った。 軽く握ると、さゆちゃんもそれに応えるように握り返す。 少し冷たくて頼りないその手がやけに愛しく思え、同時に暗い罪悪感が俺の胸を揺らした。

洋菓子店員の恋-3-

 狭い更衣室で着替えを済ませ、リュックを背負いながら事務室に顔を出すと、副店長の羽田さんがテーブルの上で書きものをしていた。 真剣だった表情が、俺の顔を見てふっと柔らかくなる。「お疲れさま」「お疲れ様です」「今日は店番一人で大変だったね」「いえ、色々とフォローありがとうございました」 お先に失礼します、と顔を引っ込めようとしたところで、「新太、ちょっといい?」と呼び止められた。 戸惑いつつ、手招きされるままテーブルを挟んで羽田さんの前に立つ。「新太、面接の時、大学が始まってもバイト続けたいって言ってたよね」「あ、はい。今より入れる時間は減っちゃうんですけど、土日と夜を中心に」「土日のどっちかだけでも、中を手伝ってくれる気、ない?」「……え」 俺は目を瞬いて、「中、って……厨房ですか」「うん。出来れば、店長を土日のどっちか休ませてあげたいんだよね。その代りに入ってもらえると、助かる」「自分が、ですか?」「そう。俺の補佐的な感じで。ダメ?」「ダメ、とかじゃなくて……。だって俺、経験ないし」「基本的なことは俺が教えるよ、全部。パティシエを目指せってことじゃない。あくまでお手伝いって感じだから」「……」 羽田さんの、補佐……?「えっと、……」 どう答えていいのか分からず、固まる。混乱しながらも、一方で気持ちが高揚していることも確かだった。 パティシエの仕事は自分には無理だと頭で理解していても、お菓子作りの世界に触れてみたいというぼんやりとした憧れはまだ消えたわけではない。 しかも、この羽田さんに直接仕事を教えてもらえるなんて……。「急な話で驚かせちゃったかな。ごめんね」「……驚き半分、嬉しさ半分、なんで?って気持ちが半分、というか……」 動揺のあまり計算の合わない事を言うと、羽田さんは可笑しそうに笑った。「なんで?ってのは余計でしょ。俺がそうしてほしいって言ってるんだから」「でも、……だって、真面目にパティシエ目指してて羽田さんの弟子に付きたい人なら、いくらでもいるじゃないですか。中途半端に俺が手伝ったりしていいのかなって……」「俺、弟子は取るつもりないんだ」 羽田さんはそこだけきっぱりとした口調で言った。「それに、誰でもいいってわけじゃないんだよ。俺、厨房の空気って一番大切だと思ってて」「空気?」「そう。ギスギスした空間でいいものは作れない。俺、意外と神経質でさ。波長が合わない人が傍にいると集中出来ないんだよね。新太なら、傍にいてもしっくりくるって言うか。相性がいいんだと思う」「……」「赤くなるとこ?そこ」 もじもじする俺の顔を見てクスクス笑いながら、羽田さんは手に持っていた万年筆をくるりと回した。 木目調の模様が入った、羽田さん愛用の万年筆だ。 年齢の割に渋いデザインだし、かなり使い込まれているようなので、もしかしたら年上の誰かから譲り受けたものなのかもしれない。「もちろん、今すぐに返事しなくていいよ。ちょっと考えてから――」「……いえ」 俺はピッと背筋を伸ばしてから、きっかり45度まで頭を下げた。「よろしくお願いします。足手まといにならないよう、がんばります」「お。即答だね」「……ちょっと焦らした方がよかったですか」「あはは、そんなことないけど。本当にいいのかなって。貴重な大学生活なのにさ、大事な休みをバイトになんか費やして」「もちろんです。……て言うか俺、大学が始まってもどうせやることないんで。何かにやりがいを見つけたいって、ずっと探してたから、……だから、こういうの、願ってもない話っていうか」「……」 羽田さんは手元に視線を落とし、万年筆をそっとテーブルの上に置いた。「新太」「はい」「――バレーボールは、本当にもういいの?」「……」 思いもよらない問いかけに、胸元を拳でドンと叩かれたような気がした。 短く息を吐き、間を置かずに答える。「はい。もう、決めたんで。ここのバイト面接を受ける時点で」「……そう」 羽田さんは顔を上げ、にっこり笑って見せた。「分かった。じゃあ、来週くらいから少しずつ中の事教えていくね。よろしく。――おつかれさま」****** 裏口から外に出ると、自分の息で一瞬、視界が真っ白になった。 見上げると、頭上では丸い街灯が月のように青白い光を放っている。 ここが明るい場所だからか、それとも曇っているのか、冬の夜空に星はひとつも見えなかった。 店の裏にある屋根つき駐輪場に足を踏み入れ、自分の自転車の前に立ってダッフルコートのポケットを探る。 通学時、駅までの道を往復するために3年間使ってきた自転車だ。 色はチタンレッド。 形は無難なママチャリだが、高校に入学する時に色々な店を周り、自分なりにこだわって選んだ。 特に大事にしていたつもりはないが、見た目はまだ綺麗な方だと思う。 ただ、鍵の内部が歪んでいるらしく、一発で開かないのが難点だった。 不便だから早く交換しようと常に思いながら今に至る。 もっとも、今さら替えても遅いかもしれない。 バイト代が入ったら、高校時代には部活で禁止されていたバイクの免許を取るつもりだ。 大学にバイクで通うようになれば、こいつに乗ることはほとんどなくなるだろう。 やっと探し当てた鍵を取り出し、身を屈めて鍵穴に挿し込む。力を込めたが、やはりすんなりとは開かなかった。「……」 胸に灯っていた小さな苛立ちが、ゆっくりとせり上がるのを感じた。 サドルを押さえ付け、力任せに鍵を押し込む。『バレーボールは、本当にもういいの?』 羽田さんの声が耳から離れなかった。 それを振り切るために、今すぐ自転車で走り出したい。 めちゃくちゃにペダルを漕いでその言葉から逃げ出したい。 その衝動をこんなちっぽけな鍵ひとつに阻まれていることが腹立たしかった。 いや、……。 腹立たしいのは自転車でも鍵でもない。羽田さんでもない。 納得の上で諦めたはずのバレーのことで、未だにこうして未練がましく心を乱している、俺自身だ。 手元が狂い、滑った親指に火がつくような痛みが走った。 外灯の灯りにさらして見ると、尖った部品にでも当たったのか、爪のすぐ横に血がにじんでいる。 ――こういうのを、泣きっ面にハチって言うんだっけ。 ため息をつき、親指についた小さな傷を口に含みながら、いったん抜こうと指先を軽く触れた瞬間、カチャンとあっさり鍵が外れた。 小学生の頃から、俺の夢はバレーボールのオリンピック選手になることだった。卒業文集にも下手くそな字でそう書いた。 夢への大きな一歩として、今の高校にバレーボールの推薦枠で入った。 日本でもトップクラスの強豪大学の付属校だ。 しかも大学では、レギュラーメンバーはほとんどが付属高校からの持ち上がりという、ほぼ純血に近いチーム編成となる。 そこに入るためには、何としても高校の3年間で結果を出す必要があった。 1年のうちはとにかく辛い基礎練習に耐えた。 中学の頃とは比べ物にならない厳しさだったが、それでも俺は一日も練習を休むことなく、毎日誰よりも早く体育館の扉を開けた。 俺の武器は肩の強さと体のしなやかさだと、中学時代からずっと言われていた。 打ち出す球の威力とスピードは充分評価に値するものだったが、高さを武器とするライバルたちに囲まれた俺がアタッカーの座を勝ち取ることはほぼ絶望的と言えた。 175cmという平凡な身長の俺は、ジャンプ力も10人並みだったからだ。 それなら、と俺は考えた。 それなら俺は、高さが足りなくてもこの肩の強さを生かすことのできるジャンプサーブを軸に、サーブを極めよう。 3年生の引退後、2軍とはいえピンチサーバー要員として1年の誰よりも早くチームに入れたときは本当に嬉しかった。頑張りが実を結んだ瞬間だった。「新太くんのジャンプサーブは本物だと思う。これからもがんばってね。大学のバレー部で会おう」 3年生が卒業する時、密かに憧れていたマネージャーのユキエ先輩にそう言われた時は、危うく泣きそうになった。 アタッカーの道を諦め、狙いを絞って努力したことはやはり間違っていなかったのだと思った。 もっとも、――ユキエ先輩は当時のスーパーエース(身長190cm)の彼女だったのだけれど。 2年生になり、俺は1軍に上がった。 やっと掴んだポジションはやはりスタメンではなくピンチサーバーだったが、それでも誇らしかった。 毎日夢中で練習に明け暮れ、そして俺はあっという間に3年生になった。 うちのバレー部には、『スカウトシーズン』と呼ばれる時期がある。 3年に進級してから引退までの間がその期間だ。 シーズンである数か月の間に、大学チームの監督は欲しい3年選手にだけ個別に連絡を入れる。 そこで、このまま内部進学してバレーを続ける気があるかどうかの意思確認が行われるのだ。 もちろん、そこで引き抜かれなくても大学のバレー部に入部することは出来る。 けれど、大学チームの監督から必要とされて華々しく入部するのとそうでないのとでは天と地ほどの差がある。 気持ち的にも、入部後の待遇にも。 声がかかるか否かは俺たち選手にとって、存在意義の有無と等しかった。 もしかしたら、という期待が、少なからず俺の中にはあった。 今までの試合で何度サービスエースを取って来たか。相手のサーブレシーブを乱して何本のチャンスボールを得て来たか。 大学の監督がその貢献度を評価すれば、きっと俺のサーブを必要としてくれる。 そんな予感にそわそわしながら、俺はその数か月間を過ごした。 そして――。 結局、最後まで声はかからなかった。 俺は必要とされていなかったのだ。「まあ、バレーで食って行けるわけじゃないしさ」 最後の大会を終えたその日、ゲーセンでコイン落としゲームをしながら稲垣が言った。「学生でいられる間くらいは遊びたいし、俺はこれでよかったと思ってるよ。バレーを続けてたら、遊ぶどころか毎日自分より才能ある奴らに囲まれて、劣等感と戦って、暑苦しい練習で毎日を潰して。それで何が残るかって言ったら、何にも残らんと思うもん。高校時代の思い出だけで充分だわ」 エースでありながら左ひざに故障を抱えていた稲垣は、スカウトシーズンを待たず、早い時期に引退を宣言していた。 惜しまれながらの潔い幕引きだった。「俺はともかく、新太、お前は背がなー。あと15センチ高けりゃ天下取れたのによ。身長だけで切られるなんて、なんつーかやり切れねえよなあ」 その時は「てめえ、傷をえぐるんじゃねえよっ」と力いっぱいアイアンクローをお見舞いしたが、――今思えば、あれは稲垣なりに俺を思いやっての言葉だったのだろう。 俺が自分で身長を言い訳にする前に――そんなブザマな真似を俺にさせる前に、あいつは先回りしてくれたのだ、きっと。 本当は分かっていた。俺に声がかからなかったのは身長のせいではない。 選ばれた奴らとは決定的に違うのだ。瞬発力、判断力、敏捷性、バレーボールに必要な才能、すべてにおいて。 そしてその差は、すでに情熱や努力で埋められるような些細なものではなくなっていた。 大切に磨き続けて来た俺のバレーボールへの思いは、大学の強豪バレー部にとって、石ころほどの価値もなかった。 必要とされなかった理由を身長のせいに出来たのは、せめてもの救いだったのかもしれない。 そう思い込むことで自分自身を納得させ、諦められた。 そう気づいた時、背が低くて良かったと、生まれて初めて思った。 俺はバレーをやめた。 さゆちゃんたちと知り合ったのは、大学のバレー部には入らないと監督に話した、その当日だった。***** 自転車を押しながら狭い裏路地を進んでいく。 ハンドルを押す右手の親指が、心臓と同じリズムでジンジンと痛んでいた。小さい傷だが、思った以上に深いのかもしれない。 機械的に足を進めて行くと、間もなく広いメイン通りに出た。 遅い時間にもかかわらず、車の往来は途切れる様子がない。 歩道の上でサドルに跨り、長く巻いたマフラーをもう一周、くるりと首に巻き付けた時だった。 伏せた目線の少し離れた先に、ブーツの脚先が見えた。 俺の視線がその綺麗な足を辿り、上へと移動していく。「――こんばんは。二回目だけど」「……」 目を見開いてポカンとしたまま、何も言えずに相手の顔を見つめる。「なに、そのリアクション。人のこと、オバケみたいに」 外灯の下、ガードレールに半分お尻を載せ、むっとしながらこちらを見ているのは、 ――本来であれば今頃、とっくに吉祥寺行きの電車に乗っているはずの、さゆちゃんだった。「なんでまだここにいるの」「ダメなの?わたしがここにいたら」「ダメではないけど……」 相変わらず可愛げのない返しだが、さして気にならないのは慣れたからだろうか。 さゆちゃんは、強気な姿勢は崩さないものの、長時間こんなところにいてやはり寒かったのか、軽く鼻を啜った。 ショートパンツから伸びた真っ白な太ももは、触れたら凍りつきそうなほどに冷え切っているのだろう。「……いや、やっぱダメだろ」  俺が言うと、大きな目がパチパチと瞬いた。 「こんな時間にこんなところに一人で立ってたら、危ない」「大丈夫」  さゆちゃんは少し得意げにあごを上げ、 「わたし、襲われてもやっつけるから。いつも、ひじ打ち一発で痴漢撃退してるし」「俺はさゆちゃんにやっつけられる相手のこと心配して言ってるんだけど」「……」  眉を寄せ、むっとした顔がやけに子供ぽく見えて、俺は思わず吹き出した。  よく見ると、怒った顔をしながらも、さゆちゃんもどこか楽しそうに見える。 ――何となく、分かって来たかも。 この子は、内面も意外と可愛いのかもしれない。「なに、もしかして。俺のこと待ってたの?」「……」  冗談めかして訊いたものの、すぐに反応はなかった。 そのまま見返していると、――徐々にさゆちゃんの顔が赤くなっていくのが分かった。 街灯の弱い光の下でも判別できるくらい、赤く。 見つめ合う2人の間を、散歩中のやけに厚着をしたパグと、そのパグにそっくりなおじさんが通り抜けて行った。「……ダメなの?待ってたら」「……ダメでは、ないけど……」「……」  俺は跨っていた自転車から降り、ゆっくりと方向転換した。「送ってくよ、駅まで」「……」 自転車を押しながら歩き出すと、さゆちゃんも黙ってその隣に並んだ。

洋菓子店員の恋-2-

 ――まあ、速攻で失恋したわけだけど、マジになる前に彼氏付きだって知れたからよかったのかもな。 おかげでショックが最小限で済んだし。 俺は立ち上がり、ショーケースの上を乾いたダスターで磨き始めた。 大丈夫。これは一時的な感情だ。 幸いなことに、俺は望みがないと分かっている恋にしがみつくほどの根性は持ち合わせていない。 他の相手でも現れれば、今すぐにだってそっちに――。 カラーン、と響いたドアベルの音に、俺はハッとして顔を向けた。 ガラス扉の向こうから現れた真っ白なコートが目に飛び込んでくる。 ――来たっ……。「いらっしゃいま、――」 “せ”の一文字を思わず呑み込んでしまったのは、そこに立っていたのが期待した人物ではなかったからだ。 しかも、――そこにあったのは別の、見覚えのある意外な顔だった。 今日の夕方、稲垣と交わした会話が無ければ、それが誰かすぐには思い出せなかったかもしれない。「……どーも」 “さゆちゃん”は、おずおず、と店の中に足を踏み入れ、首を傾げるように会釈した。 艶のある長い黒髪が、肩の上からさらりと白いコートの上を滑り落ちる。「どうも……」 その様子から読み取るに、ここを訪れたのはどうやら偶然というわけではなさそうだった。 俺のバイト先を稲垣から聞いたのだろうか。「まだ閉店時間じゃないよね」 冬休みに遊んだ時と同じ、どこか退屈そうに見える表情で店内を見回す。 相変わらず偉そうだ。 そして、相変わらず背が高い。「入っていいの?」「あ、うん」 彼女はゆっくりとこちらに向かってきた。 ぴんと背筋を伸ばし、ブーツの踵を鳴らす。 その堂々とした佇まいから、俺は金持ちの家で飼われているような毛足の長い白猫を連想した。 少し離れた位置で立ち止り、ショーケースの中に視線を落とす。「おいしそう」「おいしいよ。ここの店の商品は、どれも」 ここでは店員という立場だが、何となく、彼女には敬語を使いたくなかった。 照れくささもあるし、もしかしたら屈服したくないという意識がどこかにあるのかもしれない。「それってここの制服?似合うね、エプロン」 彼女はケーキを眺めながら言った。 本気なのか冗談なのか、それともバカにしているのか。 判断できず、俺は「まあ」と曖昧に応えた。 というか、彼女は店に入って来てから俺の方をろくに見てもいないのだから、似合うかどうかなんて分かるはずがない。 ただの社交辞令だと気付き、彼女の胸の内を推察するのがバカらしくなった。「稲垣に聞いたの?」「え?」「俺がここでバイトしてるって」「ううん、ミオから。ミオは稲垣くんから聞いたらしいけど」「ミオ?」「一緒に遊んだ時、仲良く話してたじゃない。覚えてないの?」 カラオケの時に隣に座ったショートボブと丸顔の輪郭が浮かんだ。 顔も名前もよく覚えていないけれど、「ああ、あの子ね」と思い出したふりをする。 稲垣が気に入っていた子だ。 なるほど。 あいつはそのミオちゃんとちゃっかり連絡を取り合っているわけだ。 脳裏に浮かんだ稲垣の顔が、ニヤリとスケベ笑いを漏らす。 あのヤロー。 なんとしても卒業までに童貞捨てるつもりだな。 奴に先を越されると思うと、正直心穏やかではなかった。 あいつのことだから、そうなれば黙っていられないに違いない。 得意げに女の子の身体についてのいらない講釈を垂れる様子が目に浮かぶ。 かといってこればっかりは焦ってどうにかなるものでもないし。 いや、その気になればどうにでもなるとは思うけど、俺は稲垣と違ってやらせてくれれば誰でもいいってわけではなくて、やっぱり好きな子とじゃないと――。 あれこれ考えながら1人で悶々していると、「ねえ、オススメ教えてよ」「……」 冷静な声に引き戻され、俺はすごすごとショーケースの内側に立った。「ええと。人気があるのはクラシックショコラ、新作ならこのアールグレイ・ラクテかな」 俺は少し迷ってから、「“さゆちゃん”、は、……紅茶好き?」 怒られるかな、と思いつつ下の名前で呼んでみたが、彼女は長いまつ毛を揺らし、ちらりとこちらを見ただけですぐに視線を戻した。「好き」「そう。だったら、アールグレイ・ラクテ、絶対ハマると思う」 ――良かった。馴れ馴れしいって言われるかと思った。 俺は密かに胸を撫で下ろした。 もっとも、距離を縮めたいなどという下心はなく、単に苗字を覚えていないのが気まずかっただけなんだけど。 ちなみに、下の名前が「さゆ」なのか「さゆり」なのか「さゆ子」なのか、俺は知らない。 ショーケースの方に身を屈め、真剣に悩んでいる彼女のつむじを見つめているうちに、ふとひとつの疑問が頭をもたげた。 ――ていうか……。 この子、なんで来たんだろう。「さゆちゃんて、家この辺なの」「ううん、吉祥寺」「吉祥寺?遠いね」「そうだね」「今日はこのあたりに用事でもあったの?」「別に」「……」 ――じゃあ、なんで来たの? とは聞けず、会話はそこで途切れた。『またお前と遊びたいって言ってる子がいるんだってさ。行くだろ?』「……」 稲垣の話を信じるなら、この子は俺のことを気に入ってくれているわけで。 てことはやっぱ、わざわざ俺に会いに来たんだろうか。 いや。 騙されるな、俺。 それにしちゃ態度が相変わらず横柄だし、気に入った男の前でニコリともしないってのはおかしい。 ただ単に、ケーキ屋めぐりが趣味なのかもしれない。 知り合いがいれば割引してもらえると思ったとか――。「このタルトは?」「……えっ?」 見ると、“さゆちゃん”は細くて長い人差し指でフルーツタルトを指していた。「うちのお母さん、フルーツタルト好きなんだよね。おいしいの?」「……」 フルーツタルトを指差すさゆちゃんに彼女の笑顔が重なり、答えるのが遅れた。「おいしいよ。うちの看板。売り上げナンバーワン」 それを聞いてさゆちゃんは目を瞬いた。「じゃあなんで最初におすすめしないの」「別に、何となく。俺のおすすめはこっちだよって話」 ついムキになり、店員らしからぬ言い返し方をしてしまったが、彼女は「そっか」と素直に頷いた。「じゃあ、……おすすめのアールグレイ・ラクテふたつと、クラシックショコラひとつください」「かしこまりました」 ついいつものクセで気取った声を出すと、さゆちゃんは微かに笑みを浮かべたように見えた。 会計を先に済ませ、1時間分のドライアイスとケーキを白い箱に詰める。 その間、さゆちゃんはうちの店の会員情報カードに住所と名前を記入していた。 会員になってポイントを貯めると割引サービスを受けられることや、誕生日月には商品10%OFFのバースデーカードが自宅に届くことなどを説明すると、女性の場合、だいたい8割くらいは会員になることを希望してくれるのだ。 箱に蓋をし、ちらりと彼女の手元を窺う。 そこで初めて、俺は彼女のフルネームを知ることが出来た。 ――大原さゆり……。 モデルっぽい外見の割に意外と普通の名前だな、などと失礼なことを思った。とても口には出せない。 彼女は最後に携帯の番号を書き終えると、にこりともせずに黙ってペンと用紙をこちらに差し出した。 ――それにしても、感情の読めない子だよな。 せっかくきれいな顔してるんだから、もっとニコニコすればいいのに。 ……まあ、ニコニコしてようがキャピキャピしてようが、どのみちスキル不足の俺には女の子の気持ちなんて分かりっこないんだけど。 記入漏れがないかをざっとチェックしてから、あらかじめ会計の時にポイントを入れておいたプラスチックカードを渡すと、彼女はそれを大切そうに両手で受け取った。「今日って、このまま吉祥寺に真っ直ぐ帰るの?」「……えっ?」 さゆちゃんがなぜか目を丸くするのを見て、俺も目を丸くする。「いや、ドライアイス、1時間で足りるかなって思って」「ああ、……」 彼女は何やら気まずそうに目を伏せた。「大丈夫だと思う」「帰りは電車?」「うん」「じゃ、むき出しで持って帰らない方がいいね」 吉祥寺までの道のりを考え、俺は箱をさらに紙の手提げに収めた。 そしてふと気づく。 ――もしかして今、俺がこのあと誘おうとしたと思ったのかな。 さりげなく表情を窺ってみたが、彼女の顔からは何も読み取れなかった。「お待たせ。落とさないように気を付けて」「ありがとう」 最後くらい笑顔を見られるかな、と思ったけれど、さゆちゃんは「じゃ」とあっさり背中を向けた。 出口に向かって数歩歩いたところで何かに目を留め、ぴたりと立ち止まる。「これ、……」 棚に近づき、俺がラッピングしたクッキーの詰め合わせをそっと取り上げ、こちらを振り向いた。「かわいい」「あ、それね。俺が考案したミニギフト。けっこう人気」「……ふうん」 購入を迷っているのか、さゆちゃんはじっと袋を見つめ、考え込んでいる。「いいよ、ひとつ持って帰って」「え?」「せっかく遠くまで来てくれたから、オマケ」 もちろん、バイトの俺には勝手におまけをつける権限などない。後でこっそり清算するつもりだ。 さゆちゃんはクッキーと俺の顔を見比べ、「いいの?」と首を傾げるようにして訊いた。 ――お。 今のはちょっと可愛かったかも。「いいよ。そのかわり、美味しかったらうちの店、周りに宣伝しといて」「……」 あまり表情に変化はないが、頬が微妙に緩んでいる。「ありがとう……」「いーえ」  ――へえ。 クッキーひとつでデレるとか、割と単純だな。……ちょっと意外。 さゆちゃんはぺこりと会釈してからクッキーを紙袋の中に収めると、こちらに視線を向けた。「あのさ」「ん?」「稲垣くんから、聞いた?」「何を?」「今度、また遊ぼうって話」「ああ、うん。今日の夕方、聞いた。シフトを確認してから連絡することになってる」「そう」 話は途切れたが、さゆちゃんは唇を結んだまま、まだ何か言いたげにその場に佇んでいた。 気の強そうな瞳は変わらないけれど、心なしかその頬は微かに赤みを帯びている。 彼女の様子を見て、俺は準備していた「ありがとうございました」の言葉をひとまず脇に置いた。 むずがゆい予感に尻をくすぐられるような、気恥ずかしい沈黙。「あの、新太くんて、――」 さゆちゃんがやっと言葉を発しかけたその時、店のドアの向こうに人影が見え、俺の視線はそちらに移動した。 ――あ……。 軽やかなドアベルの音とともに、俺の心臓も高い鼓動を響かせる。「いらっしゃいませ」 自分の声に嬉しさが滲むのが分かった。 さゆちゃんの視線を感じたが、顔がほころぶのを自力では止められない。「こんばんは。――ギリギリ間に合った……かな?」 おそらく本日最後の客になるであろうその女性は、息を切らしながら腕時計を確認し、明るく笑った。 それは今日一日、俺がずっと心待ちにしていた笑顔だった。「大丈夫ですよ、まだ営業中です」 彼女は傍に立つさゆちゃんに気付き、軽く会釈をしてから、いつものようにマフラーを巻き取りながらショーケースに歩み寄って来た。 今日はいつもの白いコートではなく、ネイビーのピーコートを着ている。 鼻の頭が赤らみ、いつもより幼く見えた。「今日はもう来ないかと思ってました」「違うの、絶対寄ろうと思ってたのに、友達の家でうたた寝しちゃって、気付いたらこんな時間になっちゃってて」 話しながらこっそりさゆちゃんの様子を窺うと、彼女はこちらに背中を向け、壁に飾られたブリザードフラワーのリースを見上げていた。 どうやら、まだ帰る気はないらしい。 俺の浮かれた挙動を見て、何か感じ取ったのかもしれない。 ……これは……わりと気まずいシチュエーションなのでは……。「――あ。よかった」 ケースを覗き込んだ彼女が嬉しそうに言った。「フルーツタルト、ちょうどふたつ残ってた。先週は売り切れてたから、買えるかなって心配してたの」「……」  ――やべっ。  ”フルーツタルト”というキーワードに反応したさゆちゃんが、ゆっくりとこちらを振り返る様子が視界の端に映った。『このフルーツタルトは?』『おいしいよ。うちの看板』『じゃあなんで最初におすすめしないの』『別に、何となく』 さゆちゃんとのやり取りを思い出し、俺は内心、顔を覆いたくなった。 ――これじゃ、彼女のために取っておこうとしたのバレバレじゃん……。 恐る恐る、さゆちゃんの方に視線を向ける。「……」 さゆちゃんはこちらに“ふーん”とでも言いたげな流し目を送っていた。 目が合った瞬間、ぷいと顔を逸らし、手提げ袋の中から先ほどのクッキーを取り出してぽいと棚に戻す。 そのままこちらには目もくれず、ツカツカと店を出て行ってしまった。「……あ、りがとうございましたー……」 間の抜けた俺の声は、乱暴に閉じたドアの音にかき消された。「……」 ――なるほど……。 嬉しい感情はあまり出さないけど、怒る時はとても分かりやすいのね。「……もしかして、お友達だった?」 彼女は心配そうにドアの方を振り返った。「なんか、邪魔しちゃったかな。空気読めてなかったね、ごめんね」「いえ、違います。そういうことじゃなくて」 申し訳なさそうな表情を見て、慌てて打ち消す。「大丈夫です。あの子、ちょっと間違えちゃっただけなんで」「……え?」 俺は曖昧に笑って、使い捨てのビニール手袋を右手に装着した。「フルーツタルトおふたつでよろしいでしょうか?」  ――そう。ちょっとした間違いだ。 あんな綺麗な子が、気まぐれで俺に興味を持ったことがそもそもおかしい。  たぶん、もう彼女の方から関わって来ることはないだろう。 こんな扱いをされたら、さすがに目が覚めたはずだ。 プライド高そうだし、ちやほやしてくれる男なんか周りにいくらでもいるんだろうし。 それに、……何より、俺がこの人に惚れてることにも、気付いただろうし。 それにしても、と、俺は白い箱にフルーツタルトを収めながら考えた。 よく考えたらすごい行動力だよな。 たった一度遊んだだけの、しかもろくに話もしていない相手のために、こんなところまで足を運ぶなんて。俺にはとても真似出来ない。 ショーケースの向こうに立つ彼女を、こうして真っ直ぐに見つめることにさえ躊躇してしまう、俺には。 ……まあ、当然か。 俺の場合、絶対に望みがないわけだから……。 パートの三村さんから得た情報が、エンドロールのように脳裏を流れる。 金曜日、毎週のように遅めの時間にこの店を訪れ、フルーツタルトを二人分買って行く彼女。 最初は、家が近所なのかと思っていたが、実はそうではなかった。 この店を出て彼女が向かう先は、どうやら付き合っている彼氏のマンションらしい。 ――ドアを開けたらフルーツタルトを提げた彼女が笑顔で立ってるとか……。「……」 想像しただけで羨ましすぎて泣きそう。 そして禿げそう。  陰鬱とした気持ちで持ち帰りの準備を済ませ、レジに向かおうとしたところで、彼女がまだ後ろ髪を引かれるようにショーケースの中を眺めているのに気付いた。「何か、気になりますか。箱、まだ入りますよ」「あ、ええと」 彼女はぴょこんと身を起こし、「ホールケーキって、何日前までに予約すれば間に合うかな」「ホールケーキ、なら……」 俺はショーケースの前に移動し、「このサンプルの生クリームとチョコクリームなら2日前、ザッハトルテは5日前までにご予約をお願いしてます」「……」 彼女はふむふむ、という表情で少し考えて、もう一度ショーケースに身を屈めた。「どうしよう。予約入れて行っちゃおうかな。やっぱり誕生日はホールケーキでお祝いしてあげたいし」「どなたかの誕生日ですか」 その時、彼女の頬に柔らかな朱が差したのが分かった。「そうなの。でも、誕生日の当日、お仕事で泊まりの予定が入るかもしれないんだって。お祝いは次の日になっちゃうかもしれないから、予約は入れなくていいって言われてたんだけど、……」「……」 誰の誕生日なのかは、出来れば聞きたくなかった。「なるほど。で、その、……主役の方の予定は、いつになれば分かるんですか」「遅くとも2日前には分かると思う。けど、わたしが予約を入れにここに来られるかどうか……」「じゃあ、こうしましょう」 俺は傍らの書類ケースから1枚の用紙を抜き出した。 今日の夕方、稲垣に書かせたのと同じものだ。「注文票を自分が預かっておきます。今、ここでメッセージと連絡先を書いておいてもらって、予定が分かったら電話で連絡していただければ、日付を記入して正式に予約を受け付けますよ」「……」 説明を聞き、俺の提案を理解した彼女の顔が徐々に輝いていく。「いいの?そんなこと……面倒じゃない?」「いいですよ、全然。他のお得意様にも、これくらいはしてます」「……ほんと?」 その目がウルウルしているのを見て笑いながら、「そんな、そこまで喜んでもらえるとは思わなかったです」「ううん、実はどうしようかってけっこう悩んでたから。すごくうれしい」 彼女は胸の前で手を組み、本当に嬉しそうにそう言った。 後でよく考えたら、それは俺の知らない誰かのための笑顔だったわけで。 それでも、その時彼女が見せた表情は、俺の余計な感情をすべて吹き飛ばしてしまうくらい、魅力的だった。***** 店のドアを開けて彼女を見送ってから、外に出していたメッセージボードを店内に引き上げる。 ドアの鍵を閉め、看板のライトを消し、厨房に閉店したことを報告しに行こうとして、俺はカウンターの上に置きっぱなしにしていた予約表に気付いた。 ――これは俺のポケットに仕舞っておかないと。 用紙を手に取り、彼女が丁寧に綴った文字を見つめる。 一生懸命書いてたな。 よっぽど好きなんだろうな、彼氏のこと……。 俺が貸したボールペンのお尻を無意識に自分のほっぺに突き刺し、何やらブツブツ言いながら注文票の記入をしていた彼女の顔を思い出すと、フッと笑いが漏れた。『……ケーキに“先生”じゃ、いくらなんでも変だし……でも、まだ下の名前で呼んだことないし……』 悩みに悩んで、考えに考え抜いて彼女が選んだメッセージは、思いのほかシンプルなものだった。『HappyBirthdayはるきち』「……変な名前……」 やっかみ半分でそう呟き、注文者名の欄に視線を移す。『椎名萌』 ……ただの注文書に下の名前まで書くとか、可愛すぎだろ。 エプロンの胸ポケットにそっと手を触れ、彼女に貸したボールペンの感触を確かめる。 俺にも稲垣みたいな鈍感力と、さゆちゃんみたいな度胸があったら。 たとえばこのボールペンを受け取る時、強引に手を握っ……。 ……いや。 やっぱ、無理だわ。 だって俺、彼女が困る顔、見たくないもん。 胸に残る熱を逃すように、重いため息をひとつついてから、俺は注文用紙を大切に折りたたんだ。