ショーケースには、夢のような輝きが詰まっている。
透き通ったゼラチンに沈む、色とりどりのガラス細工のようなフルーツ。
白い陶器のように眩しい生クリームと、その上で澄まし顔をする苺の、ハッとするほど鮮やかな赤。
眩暈を誘うほど濃厚な、甘い甘い香り。
洋菓子店員になり、俺は知ってしまった。
この場所――カウンターの内側は、とっておきの特等席なのだ。
仕事帰りの疲れた顔が、ショーケースを覗き込むと少しだけほっとした表情に変わる。
たった今までぐずって泣いていた小さな女の子が、チョコレートケーキを前に目を輝かせる。
そんなお客さんたちの顔を独り占めできることはきっと、洋菓子店員の特権だ。
人を幸せにする、なんて、そんな大それたものではない。
けど、うちの洋菓子を頬張った誰かが「明日もがんばろう」と思ってくれるとしたら。
こんなイカした仕事、なかなかないんじゃないか。
それに気づいた時、俺の中に一つの夢が生まれた。
ゆくゆくは、そのお客さんの笑顔を作り出すパティシエという仕事に就いてみたい。
さすがに大学を辞めて留学、なんてのは今のところ考えられないけど、羽田さんが許してくれる限り、あの人の下で両立を頑張ってみようと思う。
バレーを引退したら大学では適当に遊ぶつもりでいたのに、俺は既に別の「やりたいこと」を見つけてしまった。
単純な性格のおかげで予定はすっかり狂ったけれど、……まあ、それも悪くはないかな。
店の裏口から出て、巻きつけたマフラーに口元を埋める。
寒さに身体を縮めながら自転車置き場に向かい、――俺はぴたりと足を止めた。
「遅いよ、30分以上待った」
さゆちゃんが俺の自転車に跨っていた。
よほど寒いのか、コートの袖口から引き出したニット袖に手をすっぽりと引っ込めている。
コートの裾、合わせ目から覗いた白い太ももが街灯に照らされ、暗がりに浮かび上がって見えた。
「ごめん。待ってると思わなくて。羽田さん――副店長とちょっと、話しててさ」
「仕事のことで?」
「うん」
「ならしょうがないね。羽田って人のせいってことにする」
さゆちゃんはピョンと地上に降り、少し離れたところに立った。
自転車を出すように促されているのだと気付き、慌てて足を進める。
「新太くん、さっき言ってたけど。……やっぱり、奥で厨房の仕事、するの?」
「初めは週末だけね。そのうち、ほとんど中に引っ込むことになると思う」
「そうなんだ。……お菓子作る人になるんだね」
「うん。俺、大学卒業したら、本格的にパティシエ目指そうかと思ってる」
相変わらずクセのある鍵と格闘しながら、すこしだけ勇気を出してそう言うと、さゆちゃんは「ふうん」と気のない返事をした。
「……あれ。まさかのノーコメント」
「え」
「いや、頑張れとか、あんたには無理だとか、なにかあるんじゃないかと思ったから」
さゆちゃんは少し間を置いて、
「別にないかな。だって私が何も言わなくても、新太くんなら放っておいても自分の力で夢を叶えるだろうし。強い人だから」
思わず顔を見て固まると、さゆちゃんはきょとんと目を瞬いた。
「なに?」
「……」
今すぐ抱きしめたいほど嬉しい言葉だったけれど、俺は「そっか」とだけ言って再び顔を伏せた。
この子の言葉には、不思議な力がある。
それは、――まあ、確かにちょっとわがままだし可愛げがないところもあるけど――さゆちゃん自身に嘘がないからなんだと思う。
横顔をこっそり見つめながら、俺は少し未来の二人の姿を思い浮かべた。
もし、この子とこれからも一緒に居ることになったとして。
歯に衣着せぬ物言いに、俺は今後も大いに反発するだろう。
そして結局、毎回俺が折れることになるのだ。
なぜなら、おそらく彼女の言うことは正しいのだろうし、まあ、なんだかんだ言って俺は、女の子にお尻を叩かれたほうがうまくやっていけるのかもしれない。
――なかなか見つからないだろうな、さゆちゃんみたいな子は。
そう考えたところで、俺は急に落ち着かない気持ちになった。
のんびりしてる間に、彼女を他の男にもっていかれたらどうしよう。
「さゆちゃん」
「ん?」
「さゆちゃんて、彼氏とかいるの」
「いるわけないでしょ」
さゆちゃんが眉間に皺を寄せる。
「彼氏がいるのになんで新太くんとホテルに行くの」
「まあ、……そうなんだけどさ。一応、確認?」
未だ開かない鍵をちまちまといじりながら、俺は気持ちの盛り上がりに任せて続けた。
「あのさ」
「なに」
「もし、……もしもさ、俺が――」
言いかけて、はたと我に返る。
――いや。いかん。
いくらなんでも、失恋が確定したその日に別の子に行くのはまずいだろ。
椎名さんとはるきちが一緒にあのケーキを頬張っているところを想像すると、正直、まだ胸が痛む。
こんな中途半端な気持ちで付き合おうとか、さすがにそんな――。
「別に、いいけど」
「えっ」
「ホテルでしょ?いいよ、行こ?……新太くん、今日は一人でいるの、辛いと思うし。
だから待ってたんだもん」
「……」
カチョン、と間抜けな音と共に、鍵が外れた。
「なんだよ、それ……」
「あ……ごめん。違った?」
「違ったよ、全然。そういうことじゃなくて、俺は」
「じゃあ、行かない?」
「行く」
「行くんじゃない」
「いや、やっぱ行かない」
「どっちなの」
「だから。行きたいけど行かないんだよ。俺はさゆちゃんとのこと、もっとゆっくり始めたいし、大事にしたいの」
「――」
さゆちゃんが目を大きく見開き、「え」と小さく声を発した。
やがてその目を泳がせ、顔を逸らす。
「なにそれ。……いまさら、変なの……」
暗いから分かりにくいけれど、おそらくその横顔は真っ赤に染まっているのだろう。
どうしようもなく愛しく思え、堪らない気持ちになったけれど、――自転車を引き出した両手がハンドルでふさがってしまっていたため、俺はまたしても彼女を抱きしめるチャンスを逃した。
カラカラと自転車を押しながら、路地に出る。
今夜はいつにも増して凍えるような寒さだというのに、身体が熱を帯びているせいか、暑いくらいだ。
細い路地には、二人の足音だけが反響している。
少し息苦しくて照れくさい、しばしの間。
それを破ったのは、「おーい、新太」と背後から呼びかける声だった。
二人同時に振り返る。
「――羽田さん」
店の方からこちらに小走りで向かって来るのは、コックコート姿の羽田さんだった。
手を上げて見せ、さらに足を速める。
「よかった、追いついて」
笑いながら、俺たちが立ち止っている街灯の光の輪の中に入って来る。
「どうしたんですか」
「これ、新太のだよね。更衣室に忘れてた」
「あっ」
差し出されたのは、見覚えのあるナイロン地の長財布だった。
慌ててデニムの後ろポケットに触れ、今さら空であることに気付く。
「すみません、ありがとうございます。……ほんと、すみません」
ペコペコする俺に財布を「はい」と手渡してから、羽田さんはさゆちゃんに視線を向けた。
「お友達?」
「あ、……はい」
「新太のこと、いつも遅くまで独占してごめんね」
「いえ、そんな、ぜんぜん、はい」
見ると、さゆちゃんは恥ずかしそうに俯いたまま受け答えをしていた。
それでも、時折りチラチラと視線だけを羽田さんに向ける。
人見知りなので直視は出来ないが、それでも美しいものを見たいという本能が抑えきれない。そんな感じだ。
「……」
自分のおなかのあたりから、「イラッ」という音が聞こえた気がした。
「じゃ、新太。また明日も頼むね。帰り、気を付けて」
「はい。財布、わざわざありがとうございました」
「おつかれさま」
「おつかれさまです」
スポットライトの下から颯爽と退場する羽田さんを見送ってから、届けてもらった財布を後ろポケットに押し込む。
「ほら、いくよ」
「え、あ、うん……」
未だイケメンオーラに圧倒されているのか、さゆちゃんはどこか夢見心地な足取りで歩き出した。
――まったく……。
俺は深いため息を吐いた。
いくらなんでも、あからさまに見惚れすぎだっつーの。
まあ確かに、俺も可愛い女の子がいればボーっとしちゃうこともあるけど、それにしたって。
だいたい、はるきちも羽田さんもイケメンすぎるんだよ。
しかも中身もイケメンとか……まったく、カッコ良さもたがいにしてほしい。
八つ当たり気味に心の中で愚痴りながら口を尖らせていると、さゆちゃんが隣でふふっと笑った。
見ると、いたずらっぽい横目でこちらを見上げている。
「何だよ」
「別に。何か怒ってるのかなあと思って」
「怒ってないし」
「あっそ」
さゆちゃんは意味ありげな笑いを残し、前方に顔を向けた。
「今のが、羽田さん?」
「そうだけど」
「カッコいいね」
「……まあね」
分かり切ったこと言うなよ、とさらにムッとしていると、
「ねえ、接客のバイトって、まだ募集中だよね」
俺はギョッと目を剥いた。
「だめっ、ダメダメ、絶対ダメ!!」
俺の剣幕に、さゆちゃんが目を丸くする。
「……びっくりした。なに、急に」
「バイトするのは自由だけど、うちの店だけはだめ、絶対やめて」
「そこまで言わなくても……」
「とにかくだめ」
「どうして」
「羽田さんに近づけたくないからだろ。分かれよ」
「……」
しばらくポカンと俺の顔を見つめてから、さゆちゃんが噴き出した。
二の腕をバシッと叩き、やけに嬉しそうな顔で笑う。
我ながら恥ずかしいことを言ってしまった、と後悔しながら、俺は天を仰いだ。
ジンジン痛む二の腕が熱く、何とも照れ臭い。
「――ねえ」
笑いが完全に収まらないまま、さゆちゃんが俺の顔を覗き込んだ。
「やっぱり、このまま帰りたくないんだけど。ホテルじゃなく、カラオケでも行く?これ、一緒に食べようよ」
さゆちゃんはうちの店のケーキボックスを持ち上げて見せた。
その中身がフルーツタルト2個と1時間分の保冷剤であることは、俺が一番よく知っている。
「……カラオケね。うーん、どうすっかなあ」
断るつもりなど毛頭ないくせに、バツの悪い俺はわざとそう言った。
もったいぶってみただけで、俺は本当はさゆちゃんの提案に感謝さえしていた。
彼女ともう少し一緒に居られることが嬉しかったし、それに、――。
うちの店のフルーツタルトなら、恋に破れたばかりのこの胸の苦味をすっかり癒してくれるかもしれない。そんな気がしたからだ。
商店街の長いアーケードは、以前、二人で歩いた時とは景色が違って見える気がした。
これから何度、俺たちはこうして、並んでこの道を歩くのだろう。
そんなことを思った。
不機嫌な表情を保ちつつ、俺は頭の中で、得意な曲の一覧を検索し始めていた。
END
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