洋菓子店員の恋-6-


「ありがとうございました、お気をつけてお持ちください」


 小さな女の子を連れた若い母親が店を出て行くと、俺はレジ周りを片付けながら、ちらりと時計を見上げた。

 夕方の6時を過ぎたところだ。

 レジ横の卓上カレンダーと、手元に一枚だけ残った注文票を見比べる。

 日付と曜日。間違いなく今日のものだ。

 来店予定時間は6時半。

 これも間違いない。

 まあ、午後になってからこの動作を何度も繰り返しているのだから、間違いがなくて当然なわけなのだが。


「分かりやすいわねえ、佐々木くん」


 パート主婦の三村さんが、横目で見ながらニヤニヤ笑いを浮かべている。


「何がですか」

「そんなに待ち遠しいの?椎名さんに会うのが」

「……はい?」

「いやあねえ、すっとぼけて。誰だって分かるわよお、だって今日は予約表の束を肌身放さず持ってるし、一日中落ちつきが無かったじゃない。それが最後の一枚ってことは椎名さんを待ってるってことでしょ?」

「……」


 言い逃れる術を失った俺は観念し、ため息をついた。

 そう。

 今日は予約のバースデーケーキを取りに椎名さんが店を訪れる日。

彼氏の出張がなくなったから一緒にお祝いできると、嬉しそうな声で電話が入ったのが三日前のこと。

つまり、今日はめでたいことに彼氏の誕生日当日、というわけだ。


「言わないでくださいよ、誰にも」

「もちろん」

「口に出さなくても、本人の前でニヤニヤするのとかもダメですからね」

「分かってるってば。そんな下世話な真似、するように見える?」


 見える。

 けれど、もちろんそうは言わないでおく。


「可愛いもんねぇ、彼女。佐々木くんが惹かれるのも分かるわあ」


 うんうん、と一人で頷いてからふと真剣な表情になり、


「……もしかして、彼氏から奪う気?」


 俺はぎょっと目を見開いた。


「まさか。そんなこと考えてませんよ」

「考えてないわけないでしょ、好きなんだもの」

「いや、好きっていうか、……ちょっとした憧れみたいなもんですよ。自分には彼氏持ちに手を出す度胸なんてありませんし」

「そんなの、手を出してみないと分からないじゃない。本当に彼氏とうまくいってるとは限らないし、もしかしたら勝てるかも」

「……三村さん、意外と肉食な発言するんですね」

「他人事だから無責任なこと言ってるだけよお」


 あはは、と笑ってバシンと背中を叩く。

 予想以上に重い衝撃を受け、むせそうになった。


 ――奪う、か。


 俺は注文票に視線を落とした。

 さすがに、店員として接しているだけの相手にいきなり告白するつもりはないけど。

 でも、――一度、メシにでも誘ってみるのはアリかもしれない。

 そうすれば、少なくとも自分の気持ちが本物なのかどうか、そこだけははっきりするのではないだろうか。


「……カレシって、どんな奴なんですかね」

「え?なに?」

「椎名さんの彼氏ですよ。やっぱ、カッコいいのかな」

「どうかしらねえ。でも、若さでは勝ってるんじゃない?“先生”って呼んでるくらいだし、大学の教授かなんかでしょ、きっと。むさくるしいただのおっさんだったら佐々木くんにも可能性はあるかもね」

「……マジすか」


 三村さんは肘で俺の脇腹をつついて、


「佐々木くん、顔はまあまあだし。“洋菓子店員”っていう肩書きも、女の子にとってはなかなか悪くないと思うわよ」

「そうですかね」


 顔がまあまあ、というのが褒め言葉なのかどうかはさておき、何となく気分が盛り上がる。

 時間はかかるかもしれないけど、少しずつ距離を縮めて行けばもしかしたら、ゴハンくらいは付き合ってもらえるんじゃないだろうか。

 椎名さんとレストランのテーブル席で向かい合う画を思い浮かべる。

 美味しそうに料理を頬張る彼女。静かにワイングラスを傾ける俺。

 店を出て、夜景の見えるガラス張りのエレベーターの中でさりげなく手を繋いで、

 ――強引に壁ドンするところまで妄想が進んだところで、カラーン、とドアベルが鳴り響いた。


「いらっしゃいませー」


 愛想よく笑顔を見せた三村さんの隣で、俺は「……ませ」とだけ呟いた。


「……どうも」


 さゆちゃんは、初めてこの店を訪れた時と同じように、少し不機嫌そうに首を傾げて見せた。


「あら、お知り合い?」


 三村さんが興味深げに二人の顔を見比べる。

 ええ、まあ、と小さく答え、俺はさゆちゃんの表情を窺った。


 ――びっくりした。

 もう、来ないと思ってた。



『じゃあね。バイト、がんばって』


 ホテルで一夜を明かした、あの日。

 朝焼けの中、さゆちゃんは爽やかな笑顔で手を振り、改札の中に消えて行った。

 こちらを一度も振り返らずに。

 全てを吹っ切ったようなその表情を目の当たりにし、俺は別れの挨拶さえ忘れ、立ち尽くしていた。


『バレーボールをしてた新太くんが、好きだった。この気持ち、忘れないから、わたし』


 捨てられずにいた想いを伝えたことで、きっと彼女の中の俺は役割を終えたのだ。

たぶんもう、二度と会うことはない。


――そう思っていたのに。


さゆちゃんはゆっくりと足を進め、ケースの前に立った。

俺とは目を合わせないまま、長い髪を耳に掛け、中を覗き込む。

さすがに気を使ったのか、三村さんがこちらに背を向け、作業台の上で何やら雑用を始めた。

その気遣いに感謝し、一呼吸おいてから、改めてさゆちゃんに向き直る。


「この前は、……」


 さゆちゃんが顔を上げ、俺は言葉に詰まった。

 何を言えばいいんだろう。

 ありがとう、というのも何だし、ごめん、というのもおかしいし。


 長引く沈黙に困っていると、彼女の方が先に口を開いた。


「――バイト、やめるの?」

「えっ?」


 思いがけない問いかけに、目を瞬く。


「外に、張り紙あったから。店番のバイト募集って」

「……ああ、」


 俺は合点し、頭を掻いた。


「違うよ。俺が、中に入ることになったから」

「中?」

「うん。厨房にね。副店長の補佐って言うか。だから、店番がもう一人、必要になったんだよね」

「……ふうん」


 さゆちゃんは拗ねたような表情で目を伏せ、


「じゃあ、お店に来てももう新太くんに会えないんだ」

「……」


 ――あれ。

 あれれれ。


 胸の奥がウズウズとくすぐったくなって、俺は思わず胃のあたりを押さえた。

 さゆちゃんて、……こんな可愛かったっけ。


 三村さんが全身を耳にしてこちらをうかがっている気配がする。

 照れくささと戸惑いで軽くパニックになり、俺は「まあ、今後とも変わらずごひいきに」と若干寒い返しをしてしまった。

 クフッと笑いを漏らしたのは三村さんだ。やはりしっかり聞き耳を立てているらしい。


「今日は、いっぱいあるね」

「え、はい?」

「フルーツタルト。この前から気になってたんだ。今日は買ってもいい?」

「も、もちろん」


 俺は使い捨てのビニール手袋が入った箱に手を伸ばした。

 勢い余って指先が触れ、弾かれた箱が床の上にぽとりと落ちる。

 慌てて拾ったが、手が滑ってもう一度落とす。


「……大丈夫?」

「大丈夫、ぜんぜん大丈夫」


 挙動不審な俺を見て、さゆちゃんは怪訝そうな顔をしている。


 なんだこの子は、あんな可愛いことを言っておいて、無自覚か。


 ケースの下に入り込んだ箱を捕まえ、やっと拾い上げた時、――もう一度、ドアベルが鳴った。


 来店した男性客は走って来たのか、軽く息を切らしていた。

 濃グレーのスーツに黒いハーフコートを羽織った、サラリーマン風の男性だ。

 顔を見た瞬間、びっくりするほどイケメンだな、と思った。

 うちの副店長――羽田さんといい勝負かもしれない。


「いらっしゃいませ」


 言ってから、三村さんの声が聴こえなかったことに気付き、視線を送る。

 三村さんは突然現れたイケメンに見惚れているようだった。すぐに我に返り、とびきりの笑顔を作る。


「いらっしゃいませっ」

「……」


 なんか上目使いしてるし声がオクターブ高いし。急にどうしたんだこの人は。

 ふと見ると、あろうことかさゆちゃんまでイケメンの方をチラチラ気にしている。


 ――まったく、これだから女っていうのは。


 心の中で舌打ちを高速連打していると、イケメンと目が合った。


「こんばんは」


ぺこりと頭を下げるイケメン。

イケメンなのに腰が低い彼に、俺は好印象を持った。


「こんばんは。只今うかがいますので」


 営業用の笑顔を向けておいて、使い捨ての手袋を素早くはめる。

 先にさゆちゃんご所望のフルーツタルトを取り出そうと、ショーケースに歩み寄ったところで、


「お急ぎでしたらお先にどうぞ」


 さゆちゃんがヒョイと端に寄った。

 思わずイケメンと顔を見合わせてから、さゆちゃんが順番を譲ろうとしているのだと気付いた。


「いえ、でも……」

「いいんです。私、じっくり選びたいから」

「……」


 イケメンが俺の方を見る。いいのかな、という顔。


「では、……もしお決まりでしたら、先にうかがいます」


 彼のほっと安堵したしたような顔を見て、危うく俺まで胸がきゅんとしそうになる。

 女の子に順番まで譲ってもらえるとは……イケメンとは、一般人よりもかなり生きやすい生物であるに違いない。

 そういえば三村さんは何してるんだ、と見ると、――彼女はショーケースの裏側にしゃがみ込み、あぶら取り紙をせっせと鼻に押し当てていた。


「……」


 改めて言いたい。

 まったく、これだから女ってのはっ。


「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……」


 イケメンはさゆちゃんに頭を下げ、カウンターの前に立った。

 なぜか俺と見つめ合ってから、「あ」と思い出したようにコートのポケットを探る。


「――これ、お願いします」


 広げて目の前に差し出された白い用紙。

 俺は「えっ」と声を上げた。

 その反応を見て、さゆちゃんがさりげなくイケメンの手元に視線を走らせる。


『注文票 / お客様控え / 椎名萌 様』


「……」


 これは……。

 お客様控えと注文票、そしてイケメンの顔を何度も見比べる。


 ――まさか、こいつが……。


 湧き上がった嫌な予感に慌てて蓋をする。

 いや、まだ分からない。諦めるな。

 まだこいつが“はるきち”だと決まったわけじゃ――。

 すがるような気持ちで、俺は聞いた。


「失礼ですが、椎名さんの、――ご家族の方ですか」

「えっ」


イケメンが戸惑う。


「……いえ、家族というか……」


 当然の反応だ。普通なら、注文票をこうして持っている相手に注文者との続柄を確認することはない。

 踏み込んだ事を聞かれて怒るかな、と思ったが、――さすがイケメン。


「注文した当人が熱を出して寝込んでまして。代わりに、自分が」


 不快な顔ひとつせず、素直に答えてくれた。

 イケメンはこんな些細なことで不愉快になったりはしないのだ。

 その余裕がまた、何とも腹立たしい。


「あら、これって……」


 いつの間にか三村さんが隣から注文票を覗き込んでいた。

 俺と同じようにイケメンと注文票を交互に見て、


「――もしかして、椎名さんの彼氏さん?」


 ひぃっ、と心の中のちっちゃい俺が悲鳴を上げた。

 恐れていた言葉を横からあっさり口にされた衝撃に、両耳を塞いでこの場から逃避したくなる。


「……ええと……」


 イケメンは眉の上を人差し指で掻いた。

 そして、――俺の願いも虚しく、「はい」と照れたように笑った。

「……」


心の中のちっちゃい俺がぱたりと倒れる。


「やっぱりねえ」


 石膏のように固まった俺の背中を、三村さんがバシンと叩いた。


「残念!!!新太くん、失恋決定ね!こりゃ勝ち目ないわあ」

「……」


 俺は引きつった笑顔を浮かべ、「ですね……」と言うのがやっとだった。

 背中を叩かれた弾みで、魂がどこかへ飛んでいった気がした。


 俺が抱いた淡い恋の終わりは、あまりにもあっけないものだった。

 気まずそうな表情のイケメンの隣では、さゆちゃんが壁の方に顔を背け、笑いを噛み殺していた。


*****


 厨房に入って行くと、羽田さんが生クリームを絞り袋に詰めているところだった。


「18:30予約のホールケーキ、取りに見えました」

「用意出来てるよ。ごめん新太、出してくれる?上の段に入ってる」

「わかりました」


 手袋を着け、冷蔵庫の中のケーキを慎重に取り出す。

 見ると、ホワイトチョコで出来たメッセージボードには、すでにメッセージが入っていた。


『HAPPY BIRTHDAY はるきち』


 この文面を考えていた椎名さんの真剣な表情を思い浮かべ、感慨にふけっていると、羽田さんが「大丈夫?」と心配そうに俺の顔を窺った。


「すみません、大丈夫です」


 俺は小さくため息をついて、


「たった今、こっぴどく失恋しましたけど、大丈夫です。……いや、違った。最初から失恋してたんだった。やっぱりなんでもないです」


 羽田さんは目をぱちくりしてから、困ったように微笑んだ。


「まあ、大丈夫。失恋は次の恋のためにあるって、俺の知ってる人が言ってた」


 カッコつけたセリフも、極上イケメンが言うと胸焼けを覚えないのだから不思議なものだ。


「いい言葉ですね」

「でしょ?」

「ちなみにその人、次の恋、うまくいったんですか」

「どうだろうね。もしうまくいかなくても、また次で頑張るんじゃない?」

「……なんかそれ、あまりにもポジティブな考え方ですね」

「そうだね。でも、なかなか悪くないと思わない?」

「まあ、確かに」


 ケーキを箱に収め、店に戻ろうとして、ふと振り返る。


「羽田さんにもあるんですか、失恋の経験」

「あるよ、もちろん」

「次の恋、すぐ来ました?」

「来るわけないじゃん。現実はそううまくいかないよ」


 そう言って、羽田さんはいたずらっぽく笑った。


*****


 店に戻ると、三村さんがすでにお会計を済ませてくれていた。


「佐々木くん、早く早く。椎名さんが眠ってる間に戻ってあげたいんですって」

「あ、はい。すみません、お待たせしました」


 急かされながらも、足元に気を着けながら慎重にケーキを運ぶ。

「こちらになります。ご確認お願いします」


 箱の蓋を開けたままケーキを差し出すと、“はるきち”は中を覗き、ふっと口元を緩ませた。

 その顔を見て、この人はきっとこの簡素なメッセージの中に、彼女が迷いに迷った様子を読み取ったんだろうな、と思った。

 そこには二人の歴史とか、強いつながりとか、……上手く言えないけどそういうものがあって。

 だから俺がわざわざ説明しなくても、過程を知らなくても、彼女が一生懸命考えた結果の『HAPPY BIRTHDAY はるきち』なんだってことが感じ取れるんだろう。

 俺も、いつかそういう恋が出来るだろうか。

 何も言わなくても通じ合えるような、自分よりも相手を大切に思えるような、そんな恋が。


「どうもありがとう」


 “はるきち”は三村さんと、俺と、それから順番を譲ってくれたさゆちゃんにもきちんと目を合わせ、会釈した。

 ケーキを手に、出口に向かう。


「――あの、彼氏さん」


 戸惑いながら振り返ったイケメンに、俺は言った。


「俺、ちゃんと諦めるんで。……だから、……また、ケーキ買いに来てください。あと、……椎名さんと、お幸せに」

「……」


 余裕の笑顔でも見せるかと思ったけれど、“はるきち”は目を丸くして、それからすごく真剣な顔をして、頷いた。


「――ありがとう。幸せにします」


 思いがけずイケメンが放った、めまいがするほどイケメンな一言に、三村さんとさゆちゃんがうっとりと頬を赤らめる。


 ――そして、――。

 悔しいけれどたぶんこの時、俺も二人と同じ顔をしていたと思う。



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