洋菓子店員の恋-3-


 狭い更衣室で着替えを済ませ、リュックを背負いながら事務室に顔を出すと、副店長の羽田さんがテーブルの上で書きものをしていた。

 真剣だった表情が、俺の顔を見てふっと柔らかくなる。


「お疲れさま」

「お疲れ様です」

「今日は店番一人で大変だったね」

「いえ、色々とフォローありがとうございました」


 お先に失礼します、と顔を引っ込めようとしたところで、「新太、ちょっといい?」と呼び止められた。

 戸惑いつつ、手招きされるままテーブルを挟んで羽田さんの前に立つ。


「新太、面接の時、大学が始まってもバイト続けたいって言ってたよね」

「あ、はい。今より入れる時間は減っちゃうんですけど、土日と夜を中心に」

「土日のどっちかだけでも、中を手伝ってくれる気、ない?」

「……え」


 俺は目を瞬いて、


「中、って……厨房ですか」

「うん。出来れば、店長を土日のどっちか休ませてあげたいんだよね。その代りに入ってもらえると、助かる」

「自分が、ですか?」

「そう。俺の補佐的な感じで。ダメ?」

「ダメ、とかじゃなくて……。だって俺、経験ないし」

「基本的なことは俺が教えるよ、全部。パティシエを目指せってことじゃない。あくまでお手伝いって感じだから」

「……」


 羽田さんの、補佐……?


「えっと、……」


 どう答えていいのか分からず、固まる。

混乱しながらも、一方で気持ちが高揚していることも確かだった。

 パティシエの仕事は自分には無理だと頭で理解していても、お菓子作りの世界に触れてみたいというぼんやりとした憧れはまだ消えたわけではない。

 しかも、この羽田さんに直接仕事を教えてもらえるなんて……。


「急な話で驚かせちゃったかな。ごめんね」

「……驚き半分、嬉しさ半分、なんで?って気持ちが半分、というか……」


 動揺のあまり計算の合わない事を言うと、羽田さんは可笑しそうに笑った。


「なんで?ってのは余計でしょ。俺がそうしてほしいって言ってるんだから」

「でも、……だって、真面目にパティシエ目指してて羽田さんの弟子に付きたい人なら、いくらでもいるじゃないですか。中途半端に俺が手伝ったりしていいのかなって……」

「俺、弟子は取るつもりないんだ」


 羽田さんはそこだけきっぱりとした口調で言った。


「それに、誰でもいいってわけじゃないんだよ。俺、厨房の空気って一番大切だと思ってて」

「空気?」

「そう。ギスギスした空間でいいものは作れない。俺、意外と神経質でさ。波長が合わない人が傍にいると集中出来ないんだよね。新太なら、傍にいてもしっくりくるって言うか。相性がいいんだと思う」

「……」

「赤くなるとこ?そこ」


 もじもじする俺の顔を見てクスクス笑いながら、羽田さんは手に持っていた万年筆をくるりと回した。

 木目調の模様が入った、羽田さん愛用の万年筆だ。

 年齢の割に渋いデザインだし、かなり使い込まれているようなので、もしかしたら年上の誰かから譲り受けたものなのかもしれない。


「もちろん、今すぐに返事しなくていいよ。ちょっと考えてから――」

「……いえ」


 俺はピッと背筋を伸ばしてから、きっかり45度まで頭を下げた。


「よろしくお願いします。足手まといにならないよう、がんばります」

「お。即答だね」

「……ちょっと焦らした方がよかったですか」

「あはは、そんなことないけど。本当にいいのかなって。貴重な大学生活なのにさ、大事な休みをバイトになんか費やして」

「もちろんです。……て言うか俺、大学が始まってもどうせやることないんで。何かにやりがいを見つけたいって、ずっと探してたから、……だから、こういうの、願ってもない話っていうか」

「……」


 羽田さんは手元に視線を落とし、万年筆をそっとテーブルの上に置いた。


「新太」

「はい」

「――バレーボールは、本当にもういいの?」

「……」


 思いもよらない問いかけに、胸元を拳でドンと叩かれたような気がした。

 短く息を吐き、間を置かずに答える。


「はい。もう、決めたんで。ここのバイト面接を受ける時点で」

「……そう」


 羽田さんは顔を上げ、にっこり笑って見せた。


「分かった。じゃあ、来週くらいから少しずつ中の事教えていくね。よろしく。――おつかれさま」


******


 裏口から外に出ると、自分の息で一瞬、視界が真っ白になった。

 見上げると、頭上では丸い街灯が月のように青白い光を放っている。

 ここが明るい場所だからか、それとも曇っているのか、冬の夜空に星はひとつも見えなかった。

 店の裏にある屋根つき駐輪場に足を踏み入れ、自分の自転車の前に立ってダッフルコートのポケットを探る。

 通学時、駅までの道を往復するために3年間使ってきた自転車だ。

 色はチタンレッド。

 形は無難なママチャリだが、高校に入学する時に色々な店を周り、自分なりにこだわって選んだ。

 特に大事にしていたつもりはないが、見た目はまだ綺麗な方だと思う。

 ただ、鍵の内部が歪んでいるらしく、一発で開かないのが難点だった。

 不便だから早く交換しようと常に思いながら今に至る。

 もっとも、今さら替えても遅いかもしれない。

 バイト代が入ったら、高校時代には部活で禁止されていたバイクの免許を取るつもりだ。

 大学にバイクで通うようになれば、こいつに乗ることはほとんどなくなるだろう。


 やっと探し当てた鍵を取り出し、身を屈めて鍵穴に挿し込む。

力を込めたが、やはりすんなりとは開かなかった。


「……」


 胸に灯っていた小さな苛立ちが、ゆっくりとせり上がるのを感じた。

 サドルを押さえ付け、力任せに鍵を押し込む。


『バレーボールは、本当にもういいの?』


 羽田さんの声が耳から離れなかった。

 それを振り切るために、今すぐ自転車で走り出したい。

 めちゃくちゃにペダルを漕いでその言葉から逃げ出したい。

 その衝動をこんなちっぽけな鍵ひとつに阻まれていることが腹立たしかった。

 いや、……。

 腹立たしいのは自転車でも鍵でもない。羽田さんでもない。

 納得の上で諦めたはずのバレーのことで、未だにこうして未練がましく心を乱している、俺自身だ。

 手元が狂い、滑った親指に火がつくような痛みが走った。

 外灯の灯りにさらして見ると、尖った部品にでも当たったのか、爪のすぐ横に血がにじんでいる。


 ――こういうのを、泣きっ面にハチって言うんだっけ。


 ため息をつき、親指についた小さな傷を口に含みながら、いったん抜こうと指先を軽く触れた瞬間、カチャンとあっさり鍵が外れた。


 小学生の頃から、俺の夢はバレーボールのオリンピック選手になることだった。卒業文集にも下手くそな字でそう書いた。

 夢への大きな一歩として、今の高校にバレーボールの推薦枠で入った。

 日本でもトップクラスの強豪大学の付属校だ。

 しかも大学では、レギュラーメンバーはほとんどが付属高校からの持ち上がりという、ほぼ純血に近いチーム編成となる。

 そこに入るためには、何としても高校の3年間で結果を出す必要があった。

 1年のうちはとにかく辛い基礎練習に耐えた。

 中学の頃とは比べ物にならない厳しさだったが、それでも俺は一日も練習を休むことなく、毎日誰よりも早く体育館の扉を開けた。


 俺の武器は肩の強さと体のしなやかさだと、中学時代からずっと言われていた。

 打ち出す球の威力とスピードは充分評価に値するものだったが、高さを武器とするライバルたちに囲まれた俺がアタッカーの座を勝ち取ることはほぼ絶望的と言えた。

 175cmという平凡な身長の俺は、ジャンプ力も10人並みだったからだ。

 それなら、と俺は考えた。

 それなら俺は、高さが足りなくてもこの肩の強さを生かすことのできるジャンプサーブを軸に、サーブを極めよう。

 3年生の引退後、2軍とはいえピンチサーバー要員として1年の誰よりも早くチームに入れたときは本当に嬉しかった。頑張りが実を結んだ瞬間だった。


「新太くんのジャンプサーブは本物だと思う。これからもがんばってね。大学のバレー部で会おう」


 3年生が卒業する時、密かに憧れていたマネージャーのユキエ先輩にそう言われた時は、危うく泣きそうになった。

 アタッカーの道を諦め、狙いを絞って努力したことはやはり間違っていなかったのだと思った。

 もっとも、――ユキエ先輩は当時のスーパーエース(身長190cm)の彼女だったのだけれど。


 2年生になり、俺は1軍に上がった。

 やっと掴んだポジションはやはりスタメンではなくピンチサーバーだったが、それでも誇らしかった。

 毎日夢中で練習に明け暮れ、そして俺はあっという間に3年生になった。


 うちのバレー部には、『スカウトシーズン』と呼ばれる時期がある。

 3年に進級してから引退までの間がその期間だ。

 シーズンである数か月の間に、大学チームの監督は欲しい3年選手にだけ個別に連絡を入れる。

 そこで、このまま内部進学してバレーを続ける気があるかどうかの意思確認が行われるのだ。

 もちろん、そこで引き抜かれなくても大学のバレー部に入部することは出来る。

 けれど、大学チームの監督から必要とされて華々しく入部するのとそうでないのとでは天と地ほどの差がある。

 気持ち的にも、入部後の待遇にも。

 声がかかるか否かは俺たち選手にとって、存在意義の有無と等しかった。

 もしかしたら、という期待が、少なからず俺の中にはあった。

 今までの試合で何度サービスエースを取って来たか。相手のサーブレシーブを乱して何本のチャンスボールを得て来たか。

 大学の監督がその貢献度を評価すれば、きっと俺のサーブを必要としてくれる。

 そんな予感にそわそわしながら、俺はその数か月間を過ごした。


 そして――。

 結局、最後まで声はかからなかった。

 俺は必要とされていなかったのだ。


「まあ、バレーで食って行けるわけじゃないしさ」


 最後の大会を終えたその日、ゲーセンでコイン落としゲームをしながら稲垣が言った。


「学生でいられる間くらいは遊びたいし、俺はこれでよかったと思ってるよ。バレーを続けてたら、遊ぶどころか毎日自分より才能ある奴らに囲まれて、劣等感と戦って、暑苦しい練習で毎日を潰して。それで何が残るかって言ったら、何にも残らんと思うもん。高校時代の思い出だけで充分だわ」


 エースでありながら左ひざに故障を抱えていた稲垣は、スカウトシーズンを待たず、早い時期に引退を宣言していた。

 惜しまれながらの潔い幕引きだった。


「俺はともかく、新太、お前は背がなー。あと15センチ高けりゃ天下取れたのによ。身長だけで切られるなんて、なんつーかやり切れねえよなあ」


 その時は「てめえ、傷をえぐるんじゃねえよっ」と力いっぱいアイアンクローをお見舞いしたが、――今思えば、あれは稲垣なりに俺を思いやっての言葉だったのだろう。

 俺が自分で身長を言い訳にする前に――そんなブザマな真似を俺にさせる前に、あいつは先回りしてくれたのだ、きっと。


 本当は分かっていた。俺に声がかからなかったのは身長のせいではない。

 選ばれた奴らとは決定的に違うのだ。瞬発力、判断力、敏捷性、バレーボールに必要な才能、すべてにおいて。

 そしてその差は、すでに情熱や努力で埋められるような些細なものではなくなっていた。

 大切に磨き続けて来た俺のバレーボールへの思いは、大学の強豪バレー部にとって、石ころほどの価値もなかった。

 必要とされなかった理由を身長のせいに出来たのは、せめてもの救いだったのかもしれない。

 そう思い込むことで自分自身を納得させ、諦められた。

 そう気づいた時、背が低くて良かったと、生まれて初めて思った。


 俺はバレーをやめた。

 さゆちゃんたちと知り合ったのは、大学のバレー部には入らないと監督に話した、その当日だった。


*****


 自転車を押しながら狭い裏路地を進んでいく。

 ハンドルを押す右手の親指が、心臓と同じリズムでジンジンと痛んでいた。

小さい傷だが、思った以上に深いのかもしれない。

 機械的に足を進めて行くと、間もなく広いメイン通りに出た。

 遅い時間にもかかわらず、車の往来は途切れる様子がない。

 歩道の上でサドルに跨り、長く巻いたマフラーをもう一周、くるりと首に巻き付けた時だった。

 伏せた目線の少し離れた先に、ブーツの脚先が見えた。

 俺の視線がその綺麗な足を辿り、上へと移動していく。


「――こんばんは。二回目だけど」

「……」


 目を見開いてポカンとしたまま、何も言えずに相手の顔を見つめる。


「なに、そのリアクション。人のこと、オバケみたいに」


 外灯の下、ガードレールに半分お尻を載せ、むっとしながらこちらを見ているのは、

 ――本来であれば今頃、とっくに吉祥寺行きの電車に乗っているはずの、さゆちゃんだった。


「なんでまだここにいるの」

「ダメなの?わたしがここにいたら」

「ダメではないけど……」


 相変わらず可愛げのない返しだが、さして気にならないのは慣れたからだろうか。

 さゆちゃんは、強気な姿勢は崩さないものの、長時間こんなところにいてやはり寒かったのか、軽く鼻を啜った。

 ショートパンツから伸びた真っ白な太ももは、触れたら凍りつきそうなほどに冷え切っているのだろう。


「……いや、やっぱダメだろ」


 俺が言うと、大きな目がパチパチと瞬いた。


「こんな時間にこんなところに一人で立ってたら、危ない」

「大丈夫」


 さゆちゃんは少し得意げにあごを上げ、


「わたし、襲われてもやっつけるから。いつも、ひじ打ち一発で痴漢撃退してるし」

「俺はさゆちゃんにやっつけられる相手のこと心配して言ってるんだけど」

「……」


 眉を寄せ、むっとした顔がやけに子供ぽく見えて、俺は思わず吹き出した。

 よく見ると、怒った顔をしながらも、さゆちゃんもどこか楽しそうに見える。


 ――何となく、分かって来たかも。

 この子は、内面も意外と可愛いのかもしれない。


「なに、もしかして。俺のこと待ってたの?」

「……」


 冗談めかして訊いたものの、すぐに反応はなかった。

 そのまま見返していると、――徐々にさゆちゃんの顔が赤くなっていくのが分かった。

 街灯の弱い光の下でも判別できるくらい、赤く。

 見つめ合う2人の間を、散歩中のやけに厚着をしたパグと、そのパグにそっくりなおじさんが通り抜けて行った。


「……ダメなの?待ってたら」

「……ダメでは、ないけど……」

「……」


 俺は跨っていた自転車から降り、ゆっくりと方向転換した。


「送ってくよ、駅まで」

「……」


 自転車を押しながら歩き出すと、さゆちゃんも黙ってその隣に並んだ。



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