――まあ、速攻で失恋したわけだけど、マジになる前に彼氏付きだって知れたからよかったのかもな。
おかげでショックが最小限で済んだし。
俺は立ち上がり、ショーケースの上を乾いたダスターで磨き始めた。
大丈夫。これは一時的な感情だ。
幸いなことに、俺は望みがないと分かっている恋にしがみつくほどの根性は持ち合わせていない。
他の相手でも現れれば、今すぐにだってそっちに――。
カラーン、と響いたドアベルの音に、俺はハッとして顔を向けた。
ガラス扉の向こうから現れた真っ白なコートが目に飛び込んでくる。
――来たっ……。
「いらっしゃいま、――」
“せ”の一文字を思わず呑み込んでしまったのは、そこに立っていたのが期待した人物ではなかったからだ。
しかも、――そこにあったのは別の、見覚えのある意外な顔だった。
今日の夕方、稲垣と交わした会話が無ければ、それが誰かすぐには思い出せなかったかもしれない。
「……どーも」
“さゆちゃん”は、おずおず、と店の中に足を踏み入れ、首を傾げるように会釈した。
艶のある長い黒髪が、肩の上からさらりと白いコートの上を滑り落ちる。
「どうも……」
その様子から読み取るに、ここを訪れたのはどうやら偶然というわけではなさそうだった。
俺のバイト先を稲垣から聞いたのだろうか。
「まだ閉店時間じゃないよね」
冬休みに遊んだ時と同じ、どこか退屈そうに見える表情で店内を見回す。
相変わらず偉そうだ。
そして、相変わらず背が高い。
「入っていいの?」
「あ、うん」
彼女はゆっくりとこちらに向かってきた。
ぴんと背筋を伸ばし、ブーツの踵を鳴らす。
その堂々とした佇まいから、俺は金持ちの家で飼われているような毛足の長い白猫を連想した。
少し離れた位置で立ち止り、ショーケースの中に視線を落とす。
「おいしそう」
「おいしいよ。ここの店の商品は、どれも」
ここでは店員という立場だが、何となく、彼女には敬語を使いたくなかった。
照れくささもあるし、もしかしたら屈服したくないという意識がどこかにあるのかもしれない。
「それってここの制服?似合うね、エプロン」
彼女はケーキを眺めながら言った。
本気なのか冗談なのか、それともバカにしているのか。
判断できず、俺は「まあ」と曖昧に応えた。
というか、彼女は店に入って来てから俺の方をろくに見てもいないのだから、似合うかどうかなんて分かるはずがない。
ただの社交辞令だと気付き、彼女の胸の内を推察するのがバカらしくなった。
「稲垣に聞いたの?」
「え?」
「俺がここでバイトしてるって」
「ううん、ミオから。ミオは稲垣くんから聞いたらしいけど」
「ミオ?」
「一緒に遊んだ時、仲良く話してたじゃない。覚えてないの?」
カラオケの時に隣に座ったショートボブと丸顔の輪郭が浮かんだ。
顔も名前もよく覚えていないけれど、「ああ、あの子ね」と思い出したふりをする。
稲垣が気に入っていた子だ。
なるほど。
あいつはそのミオちゃんとちゃっかり連絡を取り合っているわけだ。
脳裏に浮かんだ稲垣の顔が、ニヤリとスケベ笑いを漏らす。
あのヤロー。
なんとしても卒業までに童貞捨てるつもりだな。
奴に先を越されると思うと、正直心穏やかではなかった。
あいつのことだから、そうなれば黙っていられないに違いない。
得意げに女の子の身体についてのいらない講釈を垂れる様子が目に浮かぶ。
かといってこればっかりは焦ってどうにかなるものでもないし。
いや、その気になればどうにでもなるとは思うけど、俺は稲垣と違ってやらせてくれれば誰でもいいってわけではなくて、やっぱり好きな子とじゃないと――。
あれこれ考えながら1人で悶々していると、
「ねえ、オススメ教えてよ」
「……」
冷静な声に引き戻され、俺はすごすごとショーケースの内側に立った。
「ええと。人気があるのはクラシックショコラ、新作ならこのアールグレイ・ラクテかな」
俺は少し迷ってから、
「“さゆちゃん”、は、……紅茶好き?」
怒られるかな、と思いつつ下の名前で呼んでみたが、彼女は長いまつ毛を揺らし、ちらりとこちらを見ただけですぐに視線を戻した。
「好き」
「そう。だったら、アールグレイ・ラクテ、絶対ハマると思う」
――良かった。馴れ馴れしいって言われるかと思った。
俺は密かに胸を撫で下ろした。
もっとも、距離を縮めたいなどという下心はなく、単に苗字を覚えていないのが気まずかっただけなんだけど。
ちなみに、下の名前が「さゆ」なのか「さゆり」なのか「さゆ子」なのか、俺は知らない。
ショーケースの方に身を屈め、真剣に悩んでいる彼女のつむじを見つめているうちに、ふとひとつの疑問が頭をもたげた。
――ていうか……。
この子、なんで来たんだろう。
「さゆちゃんて、家この辺なの」
「ううん、吉祥寺」
「吉祥寺?遠いね」
「そうだね」
「今日はこのあたりに用事でもあったの?」
「別に」
「……」
――じゃあ、なんで来たの?
とは聞けず、会話はそこで途切れた。
『またお前と遊びたいって言ってる子がいるんだってさ。行くだろ?』
「……」
稲垣の話を信じるなら、この子は俺のことを気に入ってくれているわけで。
てことはやっぱ、わざわざ俺に会いに来たんだろうか。
いや。 騙されるな、俺。
それにしちゃ態度が相変わらず横柄だし、気に入った男の前でニコリともしないってのはおかしい。
ただ単に、ケーキ屋めぐりが趣味なのかもしれない。
知り合いがいれば割引してもらえると思ったとか――。
「このタルトは?」
「……えっ?」
見ると、“さゆちゃん”は細くて長い人差し指でフルーツタルトを指していた。
「うちのお母さん、フルーツタルト好きなんだよね。おいしいの?」
「……」
フルーツタルトを指差すさゆちゃんに彼女の笑顔が重なり、答えるのが遅れた。
「おいしいよ。うちの看板。売り上げナンバーワン」
それを聞いてさゆちゃんは目を瞬いた。
「じゃあなんで最初におすすめしないの」
「別に、何となく。俺のおすすめはこっちだよって話」
ついムキになり、店員らしからぬ言い返し方をしてしまったが、彼女は「そっか」と素直に頷いた。
「じゃあ、……おすすめのアールグレイ・ラクテふたつと、クラシックショコラひとつください」
「かしこまりました」
ついいつものクセで気取った声を出すと、さゆちゃんは微かに笑みを浮かべたように見えた。
会計を先に済ませ、1時間分のドライアイスとケーキを白い箱に詰める。
その間、さゆちゃんはうちの店の会員情報カードに住所と名前を記入していた。
会員になってポイントを貯めると割引サービスを受けられることや、誕生日月には商品10%OFFのバースデーカードが自宅に届くことなどを説明すると、女性の場合、だいたい8割くらいは会員になることを希望してくれるのだ。
箱に蓋をし、ちらりと彼女の手元を窺う。
そこで初めて、俺は彼女のフルネームを知ることが出来た。
――大原さゆり……。
モデルっぽい外見の割に意外と普通の名前だな、などと失礼なことを思った。とても口には出せない。
彼女は最後に携帯の番号を書き終えると、にこりともせずに黙ってペンと用紙をこちらに差し出した。
――それにしても、感情の読めない子だよな。
せっかくきれいな顔してるんだから、もっとニコニコすればいいのに。
……まあ、ニコニコしてようがキャピキャピしてようが、どのみちスキル不足の俺には女の子の気持ちなんて分かりっこないんだけど。
記入漏れがないかをざっとチェックしてから、あらかじめ会計の時にポイントを入れておいたプラスチックカードを渡すと、彼女はそれを大切そうに両手で受け取った。
「今日って、このまま吉祥寺に真っ直ぐ帰るの?」
「……えっ?」
さゆちゃんがなぜか目を丸くするのを見て、俺も目を丸くする。
「いや、ドライアイス、1時間で足りるかなって思って」
「ああ、……」
彼女は何やら気まずそうに目を伏せた。
「大丈夫だと思う」
「帰りは電車?」
「うん」
「じゃ、むき出しで持って帰らない方がいいね」
吉祥寺までの道のりを考え、俺は箱をさらに紙の手提げに収めた。
そしてふと気づく。
――もしかして今、俺がこのあと誘おうとしたと思ったのかな。
さりげなく表情を窺ってみたが、彼女の顔からは何も読み取れなかった。
「お待たせ。落とさないように気を付けて」
「ありがとう」
最後くらい笑顔を見られるかな、と思ったけれど、さゆちゃんは「じゃ」とあっさり背中を向けた。
出口に向かって数歩歩いたところで何かに目を留め、ぴたりと立ち止まる。
「これ、……」
棚に近づき、俺がラッピングしたクッキーの詰め合わせをそっと取り上げ、こちらを振り向いた。
「かわいい」
「あ、それね。俺が考案したミニギフト。けっこう人気」
「……ふうん」
購入を迷っているのか、さゆちゃんはじっと袋を見つめ、考え込んでいる。
「いいよ、ひとつ持って帰って」
「え?」
「せっかく遠くまで来てくれたから、オマケ」
もちろん、バイトの俺には勝手におまけをつける権限などない。
後でこっそり清算するつもりだ。
さゆちゃんはクッキーと俺の顔を見比べ、「いいの?」と首を傾げるようにして訊いた。
――お。
今のはちょっと可愛かったかも。
「いいよ。そのかわり、美味しかったらうちの店、周りに宣伝しといて」
「……」
あまり表情に変化はないが、頬が微妙に緩んでいる。
「ありがとう……」
「いーえ」
――へえ。
クッキーひとつでデレるとか、割と単純だな。……ちょっと意外。
さゆちゃんはぺこりと会釈してからクッキーを紙袋の中に収めると、こちらに視線を向けた。
「あのさ」
「ん?」
「稲垣くんから、聞いた?」
「何を?」
「今度、また遊ぼうって話」
「ああ、うん。今日の夕方、聞いた。シフトを確認してから連絡することになってる」
「そう」
話は途切れたが、さゆちゃんは唇を結んだまま、まだ何か言いたげにその場に佇んでいた。
気の強そうな瞳は変わらないけれど、心なしかその頬は微かに赤みを帯びている。
彼女の様子を見て、俺は準備していた「ありがとうございました」の言葉をひとまず脇に置いた。
むずがゆい予感に尻をくすぐられるような、気恥ずかしい沈黙。
「あの、新太くんて、――」
さゆちゃんがやっと言葉を発しかけたその時、店のドアの向こうに人影が見え、俺の視線はそちらに移動した。
――あ……。
軽やかなドアベルの音とともに、俺の心臓も高い鼓動を響かせる。
「いらっしゃいませ」
自分の声に嬉しさが滲むのが分かった。
さゆちゃんの視線を感じたが、顔がほころぶのを自力では止められない。
「こんばんは。――ギリギリ間に合った……かな?」
おそらく本日最後の客になるであろうその女性は、息を切らしながら腕時計を確認し、明るく笑った。
それは今日一日、俺がずっと心待ちにしていた笑顔だった。
「大丈夫ですよ、まだ営業中です」
彼女は傍に立つさゆちゃんに気付き、軽く会釈をしてから、いつものようにマフラーを巻き取りながらショーケースに歩み寄って来た。
今日はいつもの白いコートではなく、ネイビーのピーコートを着ている。
鼻の頭が赤らみ、いつもより幼く見えた。
「今日はもう来ないかと思ってました」
「違うの、絶対寄ろうと思ってたのに、友達の家でうたた寝しちゃって、気付いたらこんな時間になっちゃってて」
話しながらこっそりさゆちゃんの様子を窺うと、彼女はこちらに背中を向け、壁に飾られたブリザードフラワーのリースを見上げていた。
どうやら、まだ帰る気はないらしい。
俺の浮かれた挙動を見て、何か感じ取ったのかもしれない。
……これは……わりと気まずいシチュエーションなのでは……。
「――あ。よかった」
ケースを覗き込んだ彼女が嬉しそうに言った。
「フルーツタルト、ちょうどふたつ残ってた。先週は売り切れてたから、買えるかなって心配してたの」
「……」
――やべっ。
”フルーツタルト”というキーワードに反応したさゆちゃんが、ゆっくりとこちらを振り返る様子が視界の端に映った。
『このフルーツタルトは?』
『おいしいよ。うちの看板』
『じゃあなんで最初におすすめしないの』
『別に、何となく』
さゆちゃんとのやり取りを思い出し、俺は内心、顔を覆いたくなった。
――これじゃ、彼女のために取っておこうとしたのバレバレじゃん……。
恐る恐る、さゆちゃんの方に視線を向ける。
「……」
さゆちゃんはこちらに“ふーん”とでも言いたげな流し目を送っていた。
目が合った瞬間、ぷいと顔を逸らし、手提げ袋の中から先ほどのクッキーを取り出してぽいと棚に戻す。
そのままこちらには目もくれず、ツカツカと店を出て行ってしまった。
「……あ、りがとうございましたー……」
間の抜けた俺の声は、乱暴に閉じたドアの音にかき消された。
「……」
――なるほど……。
嬉しい感情はあまり出さないけど、怒る時はとても分かりやすいのね。
「……もしかして、お友達だった?」
彼女は心配そうにドアの方を振り返った。
「なんか、邪魔しちゃったかな。空気読めてなかったね、ごめんね」
「いえ、違います。そういうことじゃなくて」
申し訳なさそうな表情を見て、慌てて打ち消す。
「大丈夫です。あの子、ちょっと間違えちゃっただけなんで」
「……え?」
俺は曖昧に笑って、使い捨てのビニール手袋を右手に装着した。
「フルーツタルトおふたつでよろしいでしょうか?」
――そう。ちょっとした間違いだ。
あんな綺麗な子が、気まぐれで俺に興味を持ったことがそもそもおかしい。
たぶん、もう彼女の方から関わって来ることはないだろう。
こんな扱いをされたら、さすがに目が覚めたはずだ。
プライド高そうだし、ちやほやしてくれる男なんか周りにいくらでもいるんだろうし。
それに、……何より、俺がこの人に惚れてることにも、気付いただろうし。
それにしても、と、俺は白い箱にフルーツタルトを収めながら考えた。
よく考えたらすごい行動力だよな。
たった一度遊んだだけの、しかもろくに話もしていない相手のために、こんなところまで足を運ぶなんて。
俺にはとても真似出来ない。
ショーケースの向こうに立つ彼女を、こうして真っ直ぐに見つめることにさえ躊躇してしまう、俺には。
……まあ、当然か。
俺の場合、絶対に望みがないわけだから……。
パートの三村さんから得た情報が、エンドロールのように脳裏を流れる。
金曜日、毎週のように遅めの時間にこの店を訪れ、フルーツタルトを二人分買って行く彼女。
最初は、家が近所なのかと思っていたが、実はそうではなかった。
この店を出て彼女が向かう先は、どうやら付き合っている彼氏のマンションらしい。
――ドアを開けたらフルーツタルトを提げた彼女が笑顔で立ってるとか……。
「……」
想像しただけで羨ましすぎて泣きそう。
そして禿げそう。
陰鬱とした気持ちで持ち帰りの準備を済ませ、レジに向かおうとしたところで、彼女がまだ後ろ髪を引かれるようにショーケースの中を眺めているのに気付いた。
「何か、気になりますか。箱、まだ入りますよ」
「あ、ええと」
彼女はぴょこんと身を起こし、
「ホールケーキって、何日前までに予約すれば間に合うかな」
「ホールケーキ、なら……」
俺はショーケースの前に移動し、
「このサンプルの生クリームとチョコクリームなら2日前、ザッハトルテは5日前までにご予約をお願いしてます」
「……」
彼女はふむふむ、という表情で少し考えて、もう一度ショーケースに身を屈めた。
「どうしよう。予約入れて行っちゃおうかな。やっぱり誕生日はホールケーキでお祝いしてあげたいし」
「どなたかの誕生日ですか」
その時、彼女の頬に柔らかな朱が差したのが分かった。
「そうなの。でも、誕生日の当日、お仕事で泊まりの予定が入るかもしれないんだって。
お祝いは次の日になっちゃうかもしれないから、予約は入れなくていいって言われてたんだけど、……」
「……」
誰の誕生日なのかは、出来れば聞きたくなかった。
「なるほど。で、その、……主役の方の予定は、いつになれば分かるんですか」
「遅くとも2日前には分かると思う。けど、わたしが予約を入れにここに来られるかどうか……」
「じゃあ、こうしましょう」
俺は傍らの書類ケースから1枚の用紙を抜き出した。
今日の夕方、稲垣に書かせたのと同じものだ。
「注文票を自分が預かっておきます。
今、ここでメッセージと連絡先を書いておいてもらって、予定が分かったら電話で連絡していただければ、日付を記入して正式に予約を受け付けますよ」
「……」
説明を聞き、俺の提案を理解した彼女の顔が徐々に輝いていく。
「いいの?そんなこと……面倒じゃない?」
「いいですよ、全然。他のお得意様にも、これくらいはしてます」
「……ほんと?」
その目がウルウルしているのを見て笑いながら、
「そんな、そこまで喜んでもらえるとは思わなかったです」
「ううん、実はどうしようかってけっこう悩んでたから。すごくうれしい」
彼女は胸の前で手を組み、本当に嬉しそうにそう言った。
後でよく考えたら、それは俺の知らない誰かのための笑顔だったわけで。
それでも、その時彼女が見せた表情は、俺の余計な感情をすべて吹き飛ばしてしまうくらい、魅力的だった。
*****
店のドアを開けて彼女を見送ってから、外に出していたメッセージボードを店内に引き上げる。
ドアの鍵を閉め、看板のライトを消し、厨房に閉店したことを報告しに行こうとして、俺はカウンターの上に置きっぱなしにしていた予約表に気付いた。
――これは俺のポケットに仕舞っておかないと。
用紙を手に取り、彼女が丁寧に綴った文字を見つめる。
一生懸命書いてたな。
よっぽど好きなんだろうな、彼氏のこと……。
俺が貸したボールペンのお尻を無意識に自分のほっぺに突き刺し、何やらブツブツ言いながら注文票の記入をしていた彼女の顔を思い出すと、フッと笑いが漏れた。
『……ケーキに“先生”じゃ、いくらなんでも変だし……でも、まだ下の名前で呼んだことないし……』
悩みに悩んで、考えに考え抜いて彼女が選んだメッセージは、思いのほかシンプルなものだった。
『HappyBirthdayはるきち』
「……変な名前……」
やっかみ半分でそう呟き、注文者名の欄に視線を移す。
『椎名萌』
……ただの注文書に下の名前まで書くとか、可愛すぎだろ。
エプロンの胸ポケットにそっと手を触れ、彼女に貸したボールペンの感触を確かめる。
俺にも稲垣みたいな鈍感力と、さゆちゃんみたいな度胸があったら。
たとえばこのボールペンを受け取る時、強引に手を握っ……。
……いや。
やっぱ、無理だわ。
だって俺、彼女が困る顔、見たくないもん。
胸に残る熱を逃すように、重いため息をひとつついてから、俺は注文用紙を大切に折りたたんだ。
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