メイン通りを左に折れると、駅に続くアーケード商店街に入る。
この時間帯は駅からこちらに向かって来る人の流れの方が多いので、逆流する俺たちは出来るだけ道の端を進んだ。
すでに営業時間を終えてシャッターを下ろした店も多い中、飲食店やカラオケ店だけは盛況だった。
居酒屋の前では、酔った学生風の集団が輪になって騒いでいる。
隣の店のシャッターの前でたむろして、地べたに座り込んで何やら真剣に語り合っている人たちもいる。
今は別世界に思えるけれど、大学生になったら俺たちもあんな風になるんだろうか。
そして、卒業して社会人になれば、今度はそんな大学生たちを見て眉をひそめているあの通りすがりのサラリーマンのようになるんだろうか。
「可愛かったね。さっきのひと」
唐突だったので、一瞬誰のことを言っているのか分からなかった。
知らないうちに可愛い女の子とでもすれ違ったのかと思い、後ろを振り返って見回していると、
「違うよ、さっきのお客さん。嬉しそうにしてたじゃない、新太くん」
「……ああ」
椎名さんのことを言っているのだと分かったが、何と答えていいかはわからず、言葉を探した。
「だね。俺もそう思う」
言ってから、我ながら間抜けな答え方だなと思った。
「好きなの?」
拗ねたようなニュアンスを感じ、俺は隣を歩くさゆちゃんの方を見た。
いつもの生意気そうな表情を想像していたが、今だけは違った。
うつむく横顔は、まるで叱られるのを待つ子供のように見えた。
「……改めて聞かれると、困るな」
俺は首をかしげ、
「だって俺、お客さんとしてのあの人しか知らないし、店員としてしか接したことないし。
彼女と付き合いたいのかって考えると、ちょっと違う気もする。あの人に手を出す自分とか、想像できないから。……ただ、すごく気になる人では、ある」
「……」
さゆちゃんは、ふーん、と蚊の羽音みたいな相づちを打ち、黙ってしまった。
俺がぼんやりとした答え方をしたから、ぼんやりした相づちしか打てなかったのかもしれない。
「それなら、……」
しばらく黙って歩いてから、さゆちゃんが言った。
「本気で好きになる前に、彼氏がいるかどうか聞いてみた方がいいと思う」
「……」
俺は思わず足を止めた。咄嗟に握ったブレーキが軋むような音を上げる。
さゆちゃんも立ち止まり、こちらに顔を振り向けた。
「それ、どういうこと」
「……」
「前から知ってたの?あの人のこと」
「……知らない。初めて会った」
「じゃあ、なんで……」
言いかけて、俺はふと思い当った。
「何か、見たの?さっき、店を出た後に」
「……」
さゆちゃんは目を逸らし、長いまつ毛を伏せた。
下り電車が通り過ぎたばかりなのか、駅からの人波が一時的に増幅していた。
若いサラリーマンがすれ違いざま、さゆちゃんの太ももをちらりと盗み見て行った。
「……あのまま帰ろうと思ったんだけど、……わたし、後悔して途中で引き返したの。
お店に向かってたら、さっきの広い道に出たところで、あの人が前から歩いて来るのが見えて、それで……」
言い淀んでから、続ける。
「後ろから走って来た車がすぐ傍に停まったの。あの人、すごくびっくりして、でもすごく嬉しそうな顔して、助手席に乗り込んで行った」
「……」
「運転してたのは若い男の人だった。家族とかじゃないと思う。……軽くだけど、キスしてたから……」
その光景が目の前にちらつき、俺は思わず目を閉じた。それでも、脳裏に映し出される映像は消えない。
瞼の裏に強引に彼女の笑顔を思い浮かべてみたけれど、余計に胸が苦しくなるだけだった。
黙って歩き出すと、少し遅れてさゆちゃんもついてきた。
まだ駅は見えてこないが、ホームに響くアナウンスが微かに聞こえて来る。
アーケードの先にあるロータリーに、客を待つタクシーが数台、退屈そうに並んでいるのが見えた。
「……ごめん。言わない方が良かった?」
「……」
強がりを言う気力もなく、俺は弱々しい苦笑いを浮かべた。
「まあ、……無駄にショックを受ける必要はなかったかな。分かってたことだし」
「……え」
「知ってたよ、俺。あの人に彼氏がいること。今日だって、彼氏のバースデーケーキ、嬉しそうに予約して行ったんだよね。分かった上で、それでもあの人に会える金曜日が待ち遠しかった。ただ、それだけのことだから」
「……」
「言っただろ。そもそも俺は彼女と付き合いたいなんて思ってない。考えてもみなよ。店で会うだけの、よく知りもしないお客さんを本気で好きになるなんて、ありえると思う?これは現実の恋愛とは違うんだよ。都合よく彼女に自分の理想を当てはめてるだけ。だから別に、自分に都合のいいところだけ見てればそれで良かったんだ。-―さゆちゃんだって、そうだろ」
ブーツの足音が途絶える。立ち止まって振り返ると、さゆちゃんは驚いたような顔をしていた。
「一度しか会ったことがない俺に、何を期待してるのか知らないけど。俺はさゆちゃんが思ってるような人間じゃないよ。他の男らと違って思い通りにならないところが物珍しいなら、それは単に俺が恋愛慣れしてないだけ。いつも自分のことで精いっぱいで、一つのことにしか夢中になれなくて、だから女の子にも優しく出来なくて、せっかく出来た彼女にもフラれて。俺なんて、そんなもんだよ。理想通りの男じゃなくて、悪いけど」
冗談めかそうとしたつもりが、そうはならなかった。
女の子相手に女々しいセリフを吐く自分の痛さに、笑えた。
再び歩き出すと、少し間を置いてブーツの足音が後を追って来た。
「ごめんなさい」という小さな声が聞こえたけれど、俺は聞こえないふりをした。
情けない本音をぶちまけてしまった今、もうすべてがどうでもいいことのように思えた。
アーケードを抜けてロータリーに出ると、改札に続く階段はすぐそこだった。
見上げた高架上のホームには煌々と灯りが灯り、まだ多くの人影がある。
「じゃあ、ここで」
俺は数歩歩いたところで立ち止まった。
「金曜日だし、電車の中で酔っ払いに絡まれないように気を付けて」
「……」
さゆちゃんの顔をまっすぐ見られず、自転車のハンドルを握る自分の手を見つめる。
カギで傷つけた親指には、まだ血がにじんでいた。
「それじゃ」
ハンドルを切りかけ、寸前でその動きを止める。
さゆちゃんの右手が、自転車の前かごをしっかりと掴んでいた。
「新太くん」
「……なに」
真剣な表情に、思わずたじろぐ。
「今からカラオケ、行かない?」
「……」
突拍子もない提案に、俺は目を瞬いた。
「今から?」
「うん」
「いや、もう行かないと終電なくなるよ」
「だから、朝まで」
「……」
「何だか今から帰るの、面倒になっちゃった。この時間帯の電車って、けっこう混むんだよね。それにほら、今日はケーキ持ってるから酔っ払いに絡まれたりしてもひじ打ちできないでしょ。もし暇だったら始発まで付き合ってもらおうかなって」
一気にそう言い終えると、少し遅れて彼女の顔が真っ赤に染まっていった。
「いやなら別にいいけど」と可愛げのない言葉を付け足すことは忘れない。
「……」
どうやらこの子は、自分のせいで落ち込んだ俺を慰めようとしてくれているらしい。
やっぱり可愛いところがあるな、と思った。いじらしさを微笑ましく感じ、――同時にふと、苛立ちのようなものを覚える。
――ていうか、さっき俺が言ったこと、ちゃんと聞いてたのかな。
さゆちゃんが見ているのは、俺であって俺じゃない。
彼女が頬を染めている相手は、身勝手な理想を当てはめ、作り上げた幻影のようなものだ。
俺が椎名さんに対して抱いている独りよがりな想いと、同じ。
そんな曖昧なものでしかないのに、簡単に俺への好意をちらつかせ、こうして心を揺さぶろうとする彼女を、残酷だと思った。
「……いいよ」
意地の悪い気持ちが湧き上がり、俺の中で大きく膨れ上がる。
「カラオケじゃなくて、ホテルなら」
「……」
さゆちゃんの目が大きく見開かれる。罪悪感で胸がチクリと痛んだが、自虐的な愉悦がすぐにそれを押し流した。
彼女が胸に抱いている理想の俺をボコボコに殴りつけ、傷つけ、ぶち壊してやりたい。そう思った。
「慰めてくれるつもりなんだよね。どうせならやらせてよ。カラオケだと監視カメラもあるし、店員がうるさいからさ。――いやなら別に、いいけど」
「……」
さゆちゃんは俺をまっすぐに見返し、唇を噛みしめていた。
気の強そうな瞳は少しだけ潤んで見える。
――怒り出すか、それとも泣き出すか。
平手打ちも覚悟していたが、どこかでそうはならない気がしていた。
そして、――俺の予想は当たった。
さゆちゃんは黙ってケーキの入った紙袋を自転車のかごに入れ、ショルダーバッグを探ってスマホを取り出した。
「ちょっと、待ってて」
長い指で画面を操作し、耳に当てながらこちらに背中を向ける。
「ママ?わたし。……今日ね、ミオの家に泊まるから。ううん、大丈夫。明日の午前中には帰る。うん、……うん」
電話の間、俺はぼんやり彼女の細い肩を見つめていた。
初めて聞く、彼女の少し子供っぽい声だった。甘えているような、照れているような、話を早く切り上げたがっているような。
少し早口になっているのが家族と話しているからなのか、嘘をついているせいなのか、……失望を俺に悟られまいとしているからなのか、俺には分からなかった。
*****
入り口で年齢確認されたらどうしよう、などと内心ビクビクしながらエントランスに足を踏み入れたが、どうやらこのラブホテルには受付というものが存在しないようだった。
こちらを静かに見つめる監視カメラを気にしつつ、絨毯の敷き詰められた廊下を進んでエレベーターホールに出る。
右手の壁一面にはめ込まれた液晶画面には、いくつかの室内の画像が映し出されていた。
それぞれの画面の右下には『ガーベラ』とか『アマリリス』とか、よく分からない花の名前と料金が表示されている。
とりあえず、この中から泊まりたい部屋を選ぶらしい。
ところどころ画面が暗転しているのは、そこが現在使用中ということなのだろう。
なんだかやけに生々しい。
「いいよ、好きな部屋選んで」
カッコつけてそう言ったが、これはドラマか何かで聞きかじったことのあるセリフを真似てみただけだ。
こういうところに来るのはもちろん初めてで、だけど出来ればそれを悟られたくはなかった。
さゆちゃんは液晶画面をざっと眺め、あまり迷う様子もなく一番シンプルな部屋を指差した。
スーパー銭湯の自動券売機みたいな機械で支払いを済ませ、エレベーターに乗り込む。
何となくそうした方がいいような気がして、俺は隣に立つさゆちゃんの手を取った。
軽く握ると、さゆちゃんもそれに応えるように握り返す。
少し冷たくて頼りないその手がやけに愛しく思え、同時に暗い罪悪感が俺の胸を揺らした。
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