ープロローグー
ショーケースの中には、夢のような輝きが詰まっている。
透き通ったゼラチンに沈む、色とりどりのガラス䵷軸のようなフルーツ。
白い陶器のようにしっとりとした生クリームと、その上で澄まし顔をする苺のハッとするほど鮮やかな赤色。
眩暈を誘う濃厚な、甘い甘い香りに満たされたこの店で、――。
僕は、彼女に出逢った。
-1-
カラーン、とドアベルが軽やかな音色を奏でる。
小袋に詰め合わせたクッキーのラッピングに熱中していた俺は、結びかけたリボンを指先で押さえたまま、「いらっしゃいませー」と店の入り口を振り返った。
「ちーっす、新太(あらた)。しっかり働いてるかー?」
扉の向こうから覗いた顔を見て、「なんだ」と接客用の愛想笑いを引っ込める。
「またお前かよ。バイト先に遊びに来るなって言ってるだろ」
「おい、なんだその態度は。俺はな、今日は客として来てやったんだぞ」
クラスメイトの稲垣(いながき)は、やけに偉そうに胸を張って店に入って来た。
180センチを超える身長の持ち主が入店したとたん、店の天井が急に低く感じられる。
ひょろりと細長い体の上に乗っかった童顔が、口を捻じ曲げるような笑顔を浮かべてこちらを見下ろした。
「今週末、妹の誕生日だからケーキの注文。代金も前払いで置いてく」
「マジか?」
ぴら、と一万円札をちらつかせるのを見て、そういうことなら、と再び笑顔を作ってショーケースの内側に立つ。
「ホールケーキですと、生クリームとチョコクリームがございます。サイズは――」
「こら、手のひらを返すな」
「これが仕事なんでね」
「友人よりもこんなはした金の方に笑顔を向けるのかお前は」
「どうせお駄賃込みで親からもらった金だろ。偉そうにすんな」
図星だったのか、稲垣はイシシ、と白い歯を見せた。
高3の冬休みからこのケーキ屋でアルバイトを始めて、もうすぐ2か月になる。
黒シャツの上に着けたえんじ色のエプロンは最初こそ気恥ずかしかったものの、今ではすっかり板についた気がする。
世間には受験生が溢れている時期だが、私立大の付属であるうちの高校ではほとんどが内部進学組で、稲垣も俺もその“ほとんど”に含まれていた。
バレー部を引退してからの数か月間、何をするでもなく呑気な高校生活を送っていたが、ダラダラと卒業を待つよりは自由登校の今のうちにお金を貯めておこうと思い立ち、近所にあるこのケーキ屋の面接を受けてみたというわけだ。
ただの店番なので時給は安いが、仕事は思った以上にやりがいがあったし、接客は楽しかった。
「そういえばさあ、新太」
15号のホールケーキを選び、注文用紙に妹の名前とメッセージを記入しながら、稲垣がのんびりと言った。
「冬休みに一緒にカラオケ行った西女の子、いたじゃん。いっこ下の」
「ああ、うん」
「また遊びに行こうってことになったんだけどさ。”新太くんも誘ってほしい”って言ってる子がいるんだって。行くだろ?」
「……」
ラッピングを済ませた小袋をカゴに並べていた俺は、手を止めて顔を上げた。
「俺?……なんで」
「そりゃ、気に入ったからじゃねえの」
「マジで。どの子?」
「サユちゃん」
「……?」
「ほら、あれだよ。やけに背が高くて、テニス部の」
「あー」
3:3で遊んだ中で、唯一あまり話せなかった子だ。
顔ははっきりと浮かばないが、髪の長いなかなか綺麗な子だったことは覚えている。
『バレー部なのにあんまり身長高くないんだね。レシーブの人なの?』
俺に向けられた彼女の第一声だ。
なんだこいつ、というのが第一印象だった。
元々はアタッカーを志していた俺が、身長が足りないために悔しい思いをしたことは―度や二度ではない。
それを、目線の高さがほとんど変わらない、しかも初対面の女に言われたものだから、なおさらカチンと来たのだ。
「なんだよ、新太、反応薄いな。もっと大喜びするかと思ったのに」
「いや、俺、あの子に嫌われてると思ってたから」
「なんで」
「女にしちゃ背が高かっただろ。“うちの部のブロッカー要員に欲しい”って冗談で言ったらすげえムッとしてた」
実際、その後は一言も会話を交わしていないはずだ。
なぜ会いたいと言われているのか、俺にはさっぱり分からなかった。
「ははは。いつもはモデルみたいだとか何だとかってちやほやされてっから、失礼なこと言われて逆にキュンと来たんじゃねえの」
「なんだそれ」
「知らんけど。女心なんてそんなもんだよ」
「……ふーん」
したり顔で分かったようなことを言っているが、おそらく稲垣は混じりっ気なしの童貞だ。
まあ、俺も似たようなものだが。
高2の時に一人だけ付き合った他校の彼女とは、最後までしないまま自然消滅してしまった。
言葉足らずなゆえに恋愛と両立できず、バレー一筋で頑張ってきた結果がこれだ。
「んで、とりあえず、春休みに入る前に一度遊ばないかだって。俺はヒマだからお前の予定に合わせるよ。バイトのシフト、出てるんだろ?」
「ん?……ああ、うん。この場では分かんないから、後で連絡するわ」
曖昧に答えると、稲垣は怪訝そうに俺の顔を窺った。
「やっぱ嬉しそうじゃねえな。もしかして、あんま乗り気じゃねえの」
「……」
一瞬、黒目がちな美しい瞳がちらりと脳裏をよぎった。
「――だって俺、いまバイト中だぞ。いくらなんでもハイタッチはできないだろ」
茶化すようにそう言って、作業に戻る。
稲垣はしばらくこちらを見ているようだったが、すぐに諦めたのか、用紙の記入の続きに取り掛かった。
そりゃ、嬉しくないわけじゃない。
女の子に、――まあ、性格はともかく、かなりレベルの高い子にもう一度会いたいと言われたのだ。
男ならだれでもテンションが上がるだろう。
でも――。
『それ、タテ結びになってますよ』
ふと、リボンを結ぶ手を止める。
『こうして、……この時に、上からかぶせるようにするんです。――そうそう。ほら、出来た!』
子供のように無邪気な笑顔と、ケーキよりも甘く胸をくすぐる、彼女の髪の香り。
その記憶に浸りながら、俺はピンク色の細いリボンを丁寧に結んだ。
「――よし、完成」
市松模様のクッキーが入った小袋をきれいに並べ、カゴを満タンにしてから、“税込600yen”と書かれたポップをピンで挿す。
それを持って、俺は入口のすぐ脇にある棚に向かった。
見ると、午前中に満タンにしておいたはずのカゴの中身は、すでに半分ほどに減っている。今日も売り上げは順調のようだ。
実は、このミニギフトを提案したのは俺だった。
店長の許可を得て試しに置いてみたところ、大きさと金額がちょっとしたお礼や挨拶代りにちょうど良いようで、若い母親やスーツを着た営業マンなどが買って行くようになった。
脇役ながら、これでも立派な売れ筋商品なのだ。
「なんかお前、ずいぶん楽しそうだな」
カウンターの中に戻ると、稲垣が半ば呆れたように言った。
「そう?」
「嬉しそうにクッキー並べちゃってさ。乙女かよ」
「るせー。仕事は楽しみながらやりたいの」
俺はムッとしながら稲垣の手元から注文票を取り上げた。
『美香へ。たんじょうびおめでとう』という何の工夫もないメッセージをからかってやろうかと思ったが、まあ兄としての気恥ずかしさもあるのだろうし、可哀想だからスルーしてやることにした。
記入漏れがないかを確認し、エプロンの胸ポケットに挿してあった安物のボールペンで金額を書き込む。
稲垣はケースの上に頬杖をつき、その様子を眺めていた。
「冗談抜きで、お前向いてんじゃないの、ケーキ屋さん。今流行ってるあれ、目指せばいいじゃん。なんだっけ。パテ……パテ……」
「パティシエ」
「そうそう、それ。女にもモテそうじゃん、彼女の誕生日にケーキ作ったりしてさ」
「安易な発想だな。パティシエはそんな甘い気持ちで目指すようなものじゃないよ」
気取ってそう戒めたものの、実は俺も、以前は稲垣と似たようなイメージを抱いていた。
バイトを始めた頃は、そっちに進むのもありかな、という漠然とした憧れもあった。
それを覆したのは、――。
「新太」
ガチャ、と背後の扉が開き、白いパティシエ帽が覗いた。
「フルーツタルトとキッシュ、ケースに追加いける?フリーザーのスペース空けたい」
タイミングよく厨房から顔を出したのが、その張本人。
パティシエの羽田伊織(はだ・いおり)副店長だった。
稲垣に気付き、「いらっしゃいませ」と柔らかな笑顔を見せる。
日本人離れした顔立ちと柔らかな物腰。
純白のコックコート効果を差し引いたとしても、初対面なら誰もが一瞬息を呑むほどのイケメンだ。
年齢は確か25歳。俺が同じ歳になっても、この品格と雰囲気はとうてい醸し出せないだろうなと思う。
高校を卒業してすぐにフランスに渡り、言葉の壁にも負けず修行を積んだという彼のお菓子作りに向き合う姿勢はいつも真剣で、どこまでも熱い。
そんな姿を間近で見ているうちに、パティシエという仕事は自分に勤まるような簡単なものではないと感じるようになったのだ。
「えっと……」
俺は素早くショーケースの中を確認し、
「はい、1プレートずつ、いけます。後で取りに」
「いや、いいよ。スライドから出すね」
「すみません」
本来なら俺が厨房まで取りに行かなければいけないところだが、接客中だからと気を使ってくれたのだろう。
今日、一緒に入るはずだったもう一人のアルバイトが風邪で休んでいて、店番は俺一人だった。
「新太」
「はい」
「エプロンの肩紐。くるんて一回転してる」
「えっ、あっ」
慌てて直すと、羽田さんは男の俺でさえドキッとするような優しい笑顔を残し、厨房に引っ込んだ。
「――なんだよ今の人。めっちゃかっけえ。ハーフ?」
稲垣はカウンターの上に身を乗り出し、なぜか目を輝かせている。
「いや、生粋の日本人だって言ってた」
「へえ。ケーキ作れるイケメンかあ。なんか卑怯だな」
「やめろよ、本人に聞こえるだろ。すげえ苦労して下積みしてきた人なんだぞ」
「そうなんだ。……なのに、なんでこんなちっちゃいケーキ屋にいんの?」
「……」
まあ、……それは俺も、常日頃から不思議だと思っている事ではあるのだが。
「知らないよそんなこと。それよりお前、ジャマだからとっとと会計して帰れ。これから混む時間だから」
半ば本気で言うと、稲垣もさすがに空気を読んだのか、「へいへい」と肩をすくめ、さっきの1万円札と小銭入れを取り出した。
*****
サラリーマン風の男性客が財布を仕舞い終えるのをさりげなく待ってから、4つのショートケーキが詰まった白い箱を差し出す。
「お気をつけてお持ちください」
「ありがとう」
家で小さな子供が待っているのか、男性は顔をほころばせ、大切そうに箱を受け取った。
こんな時は、俺まで幸福のおすそ分けをしてもらったような気がして嬉しくなる。
「ありがとうございましたー」
ドアベルの音を残し、少し浮かれた背中はガラスの向こうの闇に消えて行った。
立て続けに訪れた客が一気に引け、ほっと一息つく。
レジカウンターの上をダスターで拭き上げ、俺は壁の時計を見上げた。
閉店時間である10時まで、あと30分ほど。
背後の厨房からは、器具を洗う水音が微かに聞こえてきている。
――もしかしたら、今日は来ないのかな。
レジの脇に置かれた卓上カレンダーを見て、今日が金曜日であることを再度確認する。
――まあ、毎週必ず来るってわけじゃないし。
そこまで期待してたわけじゃないし。
俺は小さくため息をつき、ショーケースに向かった。
彼女がいつも必ず買って行くフルーツタルトは、残り2個になっていた。
しゃがみ込んで、スライド扉の表面をダスターで撫でる。
そこに映る顔に失望の色が滲み出ているのを見て、自分が彼女に会えることをどれだけ楽しみにしていたのか、自覚せざるを得なかった。
『それ、タテ結びになってますよ』
彼女に初めて話しかけられた時、レジの裏側で慣れないラッピングに苦戦していた俺は、何のことを言われているのか一瞬分からなかった。
目を丸くして固まる俺に、彼女は慌てて頭を下げた。
『あっ、ごめんなさい、いきなり余計なこと。でも……』
黒目がちな目が、人懐っこそうに弧を描く。
『きちんとリボン結びにした方が、中のクッキーがもっと可愛く見えると思うから』
あれは、俺がこの店で働き始めて2週間ほど経ったころ。
まだ街に正月の雰囲気が残る、1月の上旬だった。
その日は平日の金曜日だったが、店は昼過ぎくらいから混み始めた。
彼女が店の入り口をくぐったのは、やっと客が途切れた夕方の4時ごろだった。
「いらっしゃいませー」
一緒に店番をしていたパート主婦、三村(みむら)さんは休憩中で、俺は一人でカウンターの中に立っていた。
その日、彼女は質の良さそうな白のダッフルを着ていて、それがとてもよく似合っていた。
俺とそう変わらない年齢だろう。高校生か、大学生か。
艶のある黒髪と、切りそろえられた前髪の下に輝く、深い黒目がちな瞳。
お嬢様っぽい人だな、と思った。
「こんにちは」
マフラーを解きながらまっすぐショーケースに歩み寄る慣れた様子を見て、この店の常連なのだと分かる。
「ここ、あったかいですね。外、すごく寒くて」
店の中と外の気温差を表すかのように、彼女の頬は赤く上気していた。
身を屈め、ショーケースを覗き込むと、展示灯の灯りに照らされ、大きな瞳がキラキラと輝いた。
「あ、フルーツタルト、まだ残ってる」
「それが本日お出しできる最後の2個だと思います」
「そうなんですか。よかったあ、間に合って」
本当に嬉しそうに言うので、俺もつられて嬉しい気分になってしまう。
その時、背後の休憩室に続く扉が開き、三村さんが売り場に戻って来た。
「あらあ、こんにちは、いらっしゃいませ」
やはり彼女は店のなじみらしく、三村さんは親しげに声をかけた。
「こんにちは」
自分に向けられたわけではないのに、彼女の見せた人懐こい笑顔にドキリとした。
「クリスマスはありがとうございました。おすすめしていただいたカシスゼリー、すごくおいしかったです。みんなにも喜んでもらえました」
「本当に?よかったわあ。あれ、うちの副店長のオリジナルで、評判が良ければ毎年恒例のクリスマスメニューに加えようかって話してるところなの」
「わあ、それじゃ、わたしも一票入れます!」
親しげな二人の会話からさりげなくフェイドアウトし、俺はカウンターの裏側で作業の続きに取り掛かることにした。
台の上に広げているのは、100円ショップで買ってきた色とりどりのリボンやシール、サイズ違いの小分け袋などだ。
お皿に載せた市松模様のクッキーは、サンプル作成用にと厨房から分けてもらった。
店長にミニギフトの提案をし、「いいね。やってみて」と言ってもらえた時はかなりテンションが上がった。
値段の設定によっては人気商品になるという自信があるのだが、――問題はラッピングだった。
俺にはセンスが皆無らしく、どうやっても不恰好で安っぽく見えてしまう。
三村さんにも試しにひとつ作ってみてもらったが、結果、女性がみんなラッピングセンスを持ち合わせているわけではないと分かっただけだった。
俺が作業する横で、2人は客と店員というより、母娘のように楽しげに盛り上がっている。
時折彼女が上げる笑い声は、まさに鈴が転がるような、上品で可愛らしいものだった。
2人の会話をBGMに、心地よくラッピング作業をしていると、
「――で?カレシは元気なの?」
「……」
三村さんのいたずらっぽい問いかけに、俺の耳がピクリと反応した。
「えっと、……はい……」
聞こえて来た恥ずかしそうな返答に、俺は内心、ため息をついた。
――なんだ、リア充か……。
……まあ、当然か。これだけ可愛いんだし……。
魅力的な女の子に彼氏がいるという話を聞くと、それが自分とは無関係の相手であっても、なぜか焦燥感のようなものを感じてしまう。
ていうか、可愛くて性格がいいのに彼氏持ちじゃない子なんて、この世にどれくらい存在するんだろうか。
もしいたとしても、その子と俺が出会う確率なんて、
――さらには、その子が俺のことを好きになってくれる確率なんて、宝くじの1等を当てるより低いんじゃないか。
何となく面白くない気分で黙々とクッキーを詰め続けるうちに、俺はいつの間にかすっかり作業に没頭していた。
右耳で三村さんの打つレジの音を聞きながら、適当な長さに切ったリボンを結んでいる、その時だった。
「それ、タテ結びになっちゃってますよ」
「……」
顔を上げると、ケーキの入った箱を手にした彼女が目の前に立っていた。
戸惑う俺の表情を見たからか、慌てたように「ごめんなさい」と頭を下げる。
「でも、……きちんとリボン結びにした方が、中のクッキーがもっと可愛く見えると思うから」
「……」
さっきまで三村さんに向けられていた、ミルクキャラメルのように甘い笑顔が、今は真っ直ぐこちらに注がれている。
――落ち着け、俺。
彼氏がいるって、たった今聞いたばっかだろ。
そう自分に言い聞かせながら、――俺はこの感情の前に理屈など無意味だということを思い知らされていた。
一目惚れという嘘くさい言葉が、俺のもとに現実として落ちてきた瞬間だった。
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